観光丸
観光丸 | |
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基本情報 | |
建造所 |
オランダ[1]・フリシンゲン[2][3] またはアムステルダム・国立造船所[4] |
運用者 |
幕府海軍[1] 軍務官直轄(明治政府)[5] |
艦種 | コルベット[1] |
艦歴 | |
進水 | 1853年[要出典] |
竣工 |
嘉永3年(1850年)[6] または嘉永5年(1852年)[4] |
就役 | 安政2年8月(1855年)授受[3] |
除籍 | 1876年3月[2] |
その後 | 解体[2] |
要目 | |
排水量 | 400英トン[2] |
長さ |
29間[3](約52.7m) または170 ft (51.8 m)[1] |
幅 |
5間[3](約9.1m) または30 ft (9.1 m)[5] |
深さ | 4間[3](約7.3m) |
ボイラー | 角缶 2基[6] |
主機 | 軽圧揺動機械[6] |
推進 | 外輪[1] |
出力 | 150馬力[1] |
帆装 | 3檣スクーナー[1] |
乗員 | 慶応4年1月定員:97名[7] |
兵装 |
大砲 6門[3] または 15門[2] |
その他 | 船材:木[1] |
観光丸(かんこうまる、旧字体:觀光丸)は江戸幕府の[1]、後に軍務官直轄(明治政府)の軍艦(コルベット)[5]。
観光とは、中国の『易経』の「観国之光(国の光を観る)」からとったものである[2]。ちなみに観光旅行等の「観光」は、この後にここからとった言葉であるという[2]。
概要
[編集]1855年(安政2年)、長崎海軍伝習所練習艦としてオランダより江戸幕府へ贈呈された軍艦。 江戸幕府初の木造外車式蒸気船。旧名スームビング号[1](Soembing)[注釈 1]。 スンビン号とも。 木造の外輪船で3檣スクーナー型のコルベット[1]。
艦歴
[編集]1850年(嘉永3年)にオランダのフリシンゲンで建造が開始され、1853年(嘉永6年)に完成。アメリカに先んじて日本を開国させ権益を守りたいオランダ政府は、日本におけるアメリカ艦隊の使命などについて詳細な情報を得るためヘルハルドゥス・ファビウス中佐を艦長に同船を日本に派遣、1854年(嘉永7年7月1日[8][注釈 2])に長崎着[9]。 西欧文化の優秀性を理解させることで開国を促したいオランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウスは、ファビウス中佐滞在中に日本で海軍教育を行ない[9]、 幕府は臨時海軍伝習計画を建てて操艦術の指導を受け、各藩は優秀な人材を長崎に派遣留学させた[2]。 これが長崎海軍伝習所の始まりだった[2]。 同年9月5日、スンビン号は一旦長崎を離れ、10月にジャカルタに寄港した[2]。 クルティウスはオランダ政府に対してスンビン号を幕府に寄贈するよう提案[9]、 政府の同意を得てファビウスはスンビン号(艦長ヘルハルト・ペルス・ライケン)を率いてフェデー号(Gedeh[注釈 3])で1855年(安政2年6月7日[2])に再来日[9]。 安政2年8月25日[4]、 スンビン号はオランダ国王ウィレム3世から13代将軍徳川家定へ贈呈され、日本の最初の蒸気船となる。 この時日本側は返礼として、狩野雅信や狩野永悳といった当代一流の御用絵師たちが描いた金屏風10双を贈り、その大半がライデン国立民族学博物館に現存している[注釈 4]。
翌年「観光丸」と改名し、幕府海軍の練習艦として使われる。[要出典] 安政2年(1855年)から6年にかけて長崎に於いて「観光丸」を練習艦(のちに他艦も追加)、ペルス・ライケンなどを教官として海軍伝習が行われた[10]。その最中、遠隔地である長崎ではいろいろ問題があることから安政4年に江戸で軍艦教授所が開設されることになり、「観光丸」で帰府した第一次伝習生徒がその開設要員となった[11]。「観光丸」は矢田堀景蔵の指揮で安政4年3月4日から26日にかけて長崎から江戸へ航海している[12]。
観光丸は万延元年1月(1860年)に佐賀藩が預かり[2]、 3月25日受領[13]、 同藩の三重津海軍所で運用された。1865年(慶応元年)に「観光」と再び改名。[要出典] 文久2年11月19日(1862年)江戸へ回航した[2][13]。 元治元年2月(1864年)、神戸で幕府に返還された[2][13]。 万延元年3月から4月まで長崎派遣、4月から文久3年12月まで佐賀藩へ貸与[14]とも。文久3年末から4年初めの将軍徳川家茂の軍艦による再上洛の際、「観光丸」も動員された[15]。
元治元年2月、輸送船との区別のため軍艦は「丸」を省いて呼ぶこととされた[16]。この際、「観光」他5隻が軍艦とされている[16]。
慶応4年4月11日(1868年)に朝廷へ献上[1]、 4月28日収容し[4]、 軍務官直轄(明治政府)の軍艦となり[5]、 以後横須賀に繋留された[4]。 この時既に艦齢18年であり[2]、 同年5月に廃船となったという記録もあるという[17]。 この頃の写真では帆装設備が撤去され、外洋航行は既に断念されている[17]。 1873年(明治6年)石川島に繋留替えされた[4]。 1876年(明治9年)3月に除籍、解体された[18]。
復元船
[編集]1987年(昭和62年)に進水した復元船が、長崎のハウステンボスで就航している。造船は国立アムステルダム海事博物館(Het Scheepvaartmuseum)所蔵の設計図面と模型を基に、オランダのハウスデン市(フーズデン市、Heusden)にあるフェロルメ造船所(Verolme Scheepswerf Heusden)に発注され、当時の姿になるべく近いかたちで復元・建造が行われた。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ インドネシアの火山・スンビン山(Gunung Sumbing)より名付けられた[1]。
- ^ #銘銘伝2014pp.191-192では、安政元年8月31日としている。
- ^ インドネシアの火山・ゲデ山(Gunung Gede)より名付けられた。[要出典]
- ^ 榊原悟監修 サントリー美術館 大阪市立美術館 日本経済新聞社 『BIOMBO 屏風 日本の美』(日本経済新聞社、2007年)や、ライデン国立民族学博物館の公式サイトでそれらの図版を見ることが出来る。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l #日本近世造船史明治(1973)p.80
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o #銘銘伝2014pp.191-192
- ^ a b c d e f #海軍歴史23船譜(1)画像1、政府軍艦。
- ^ a b c d e f 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.9、観光(かんこう、くゎんこう)
- ^ a b c d #日本近世造船史明治(1973)p.171
- ^ a b c #帝国海軍機関史(1975)別冊表1、(第四表)
- ^ #帝国海軍機関史(1975)pp.201-202、士官10人、水夫小頭・火焚小頭9人、平水夫・平火焚・銃卒76人、大工1人、鍛冶1人。
- ^ #帝国海軍機関史(1975)p.34
- ^ a b c d 『ポンペ日本滞在見聞記』新異国叢書、第10巻、雄松堂書店、1968年、原著1887年、P9~
- ^ 『幕府海軍の興亡』73、82ページ
- ^ 『幕府海軍の興亡』73ページ
- ^ 『幕府海軍の興亡』83ページ
- ^ a b c #佐賀藩海軍史(1972)p.253
- ^ 『幕府海軍の興亡』106-107ページ
- ^ 『幕府海軍の興亡』152-153ページ
- ^ a b 『幕府海軍の興亡』170ページ
- ^ a b #日本海軍全艦艇史p.438、No.1227の画像解説。
- ^ #艦船名考(1928)pp.3-4、3 観光 くわんくわう Kwankwô
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『海軍歴史 巻之23 船譜(1)』。Ref.C10123646500。
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 金澤裕之『幕府海軍の興亡 幕末期における日本の海軍建設』慶應義塾大学出版会、2017年、ISBN 978-4-7664-2421-8
- 造船協会『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 秀島成忠/編『佐賀藩海軍史』 明治百年史叢書 第157巻、原書房、1972年12月(原著1917年)。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。