誠勲
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誠勲(せいくん、道光28年(1848年) - 宣統7年5月14日(1915年6月22日))は、清の人物。字は果泉。
生涯
[編集]満州正紅旗人。イルゲンギョロ氏(irgen-gioro hala、伊爾根覚羅氏)。
一品蔭生の出身で、同治3年(1864年)に六部郎中分部学習行走となり、光緒2年(1876年)に兵部郎中に任じられた。光緒8年(1882年)から光緒11年(1885年)にかけて坐糧庁の監督を務めたが、光緒12年(1886年)に山東督糧道に転じた。同年から翌光緒13年(1887年)にかけて直隷大順広道・按察使も加えられ、光緒13年から光緒17年(1891年)にかけて奉天奉錦山海道に任じられた。以降も江西広饒九南道・浙江寧紹台道[1]・江蘇按察使・浙江布政使・護理浙江巡撫[2]・安徽巡撫・江寧将軍・広州将軍・チャハル(察哈爾)都統[3]・熱河都統を歴任し、宣統3年(1911年)には慶親王内閣で弼徳院顧問大臣に任じられた。
宣統7年5月14日(1915年6月22日)、68歳で死去した。