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諏訪蘇山 (初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代

諏訪蘇山
生誕 諏訪栄三郎
嘉永4年5月25日1851年6月24日
加賀国金沢馬場六番丁
死没 1922年大正11年)2月8日
京都府京都市下京区五条坂
墓地 京都市建仁寺、金沢市興徳寺
国籍 日本の旗 日本
教育 金沢航海学校中退
著名な実績 陶芸
代表作 青瓷鳳凰耳花瓶(東京国立博物館所蔵)
流派 九谷焼青磁白磁
配偶者 諏訪富子
受賞 従七位
選出 帝室技芸員
活動期間 1876年(明治9年) - 1922年(大正11年)

初代 諏訪 蘇山(すわ そざん、嘉永4年5月25日1851年6月24日) - 1922年大正11年)2月8日)は、明治大正時代の陶芸家。名は好武。別号は金水堂、精斎。旧加賀藩士。帝室技芸員

概要

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加賀藩で武芸を学び、軍務に携わった後、1873年(明治6年)任田屋徳次に陶芸を学び、1876年(明治9年)大井村に工場を設立した。坂井高岡、九谷陶器会社、金沢区立工業学校山内伊右衛門工場など北陸地方各地で陶器、煉瓦の製造、指導を行った。

1900年(明治33年)京都市錦光山宗兵衛工場に務めた後、1907年(明治40年)五条坂に独立した。1914年(大正3年)李氏朝鮮高麗窯再建に携わり、1917年(大正6年)宮内省帝室技芸員に選ばれた。

金水堂の号は大徳寺管長見性宗般、精斎の号は妙法院門跡村田寂順から贈られたもの[1]

生涯

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製陶以前

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嘉永4年(1851年)5月25日加賀国金沢馬場六番丁(石川県金沢市小橋町)に諏訪重左衛門の長男として生まれた[2]。幼名は栄三郎[1]文久3年(1863年)13歳で父を喪ったため、藩の規定により元治元年(1864年)14歳で家名を継ぎ、同時に剣道、馬術、水練術の免許を得て家督を相続、手工により家計を支えた[2]

明治元年(1868年)1月壮猶館教授役、明治2年(1869年)12月合図方練習、明治3年(1870年)10月五番大隊合図長を務め、12月修業のため上京し、明治4年(1871年)2月東京府兵関門上役となったが、上官と対立して5月帰郷し、12月軍を離れた[2]

明治5年(1872年)2月金沢航海学校に入学したが、1873年(明治6年)2月閉校となり、退学した[2]。この間水産講習所で教員として働き、捕鯨用麻縄、缶詰、燻製、塩漬けについて研究した[2]

北陸時代

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1873年(明治6年)4月任田屋徳次に初めて陶画を学び、1875年(明治8年)2月上京、工部省教師フェノロサ邸隣に住んで美術工芸を学び、また大学校教師ゴットフリード・ワグネルに化学を学んだ[2]。1876年(明治9年)2月大井村に工場を設立し、橋本雅邦久保田米僊等を招いて陶像、石膏像の製作、模型の捻造を行った[2]

1877年(明治10年)8月瀬戸京都の製陶所を視察し、九鬼隆一に従い奈良正倉院法隆寺の古美術を鑑賞した[2]。1878年(明治11年)7月福井県坂井港で製陶の改良に携わり、1880年(明治13年)9月石川県江沼郡九谷陶器会社で陶芸を教える傍ら、陶像置物を考案し、1884年(明治17年)1月帰京した[2]

第四高等中学校校舎は四高記念文化交流館として現存する。

1884年(明治17年)6月石川県工業考案者に任じられ、1886年(明治19年)高岡町で鉄瓶の蝋型改良に従事した[2]。1887年(明治20年)7月19日金沢区立工業学校補助教員となり、1888年(明治21年)6月石川県銅器会社で蝋型改良に携わった[2]

第四高等中学校開校に当たり、煉瓦調達のため上京して直接文部大臣森有礼に相談し、技師久留正道の協力で7月河北郡法光寺村で煉瓦を製造した[2]

1889年(明治22年)4月1日石川県立工業学校助教諭試補となり、1892年(明治25年)4月1日彫刻科教員の仮免許を受け、4月4日助教諭に進んだ[2]。1893年(明治26年)大病から蘇生し、蘇山と号した[3]

1896年(明治29年)11月30日休職し、福井県丹生郡宮崎村字小層原の山内伊右衛門工場で陶芸を教え、土管製造場を監督した[2]。1897年(明治30年)3月12日金沢市八木煉化工場主管として煉瓦窯を設計、1898年(明治31年)2月富山県伏木煉瓦株式会社場長兼技術長に転じ、1899年(明治32年)12月辞職した[2]

京都時代

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1900年(明治33年)1月京都に行き、粟田の錦光山宗兵衛工場で製陶改良に携わり、彩釉透彫花瓶を製作した[2]。1901年(明治34年)10月7日日本大菩提会技術員となり、日暹寺シャム国王寄贈の仏舎利を入れる仏龕を製作し、1903年(明治36年)10月辞職した[2]

1906年(明治39年)10月錦光山工場を辞し、1907年(明治40年)1月京都市五条坂に独立して窯を構えた[2]七官青磁交趾釉白高麗、漆黒釉等、多岐に渡る様式を研究し、1913年(大正2年)には鳥の子青磁を考案した[2]

1914年(大正3年)1月李王職の依頼で朝鮮に渡り、高麗古窯旧跡を調査し、11月帰国して窯の再建を指導した[2]。1915年(大正4年)6月昌徳宮苑内鷹峰に完成すると、8月再訪して焼成実験を行い、10月帰国した[2]

1917年(大正6年)6月11日宮内省帝室技芸員に選ばれ、1919年(大正9年)久邇宮邦彦王台湾訪問、1921年(大正10年)聖徳太子1,300年忌等に際し作品を献上した[2]

死去

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1922年(大正11年)1月風邪に罹り、肺炎を併発、持病の神経衰弱症が加わり、2月7日脳溢血を発症、8日午後10時死去した[2]。同日従七位に叙された[2]。14日建仁寺方丈で葬式が営まれ、金沢の菩提寺笹ヶ町興徳寺に分骨された[2]。法名は金水院蘇山精斎居士[2]

死後、養女虎子が諏訪蘇山 (二代)として窯を継ぎ、1970年(昭和45年)諏訪修が諏訪蘇山 (三代)、2002年(平成14年)その三女中村公紀が諏訪蘇山 (四代)を名乗る[3]

作品

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親族

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  • 父:諏訪好方 - 通称は重左衛門。文久3年(1863年)7月30日没[2]
  • 母:へん - 藩馬医[1]渡辺与左衛門次女。1896年(明治29年)5月5日没[2]
    • 弟:諏訪好直 - 安政元年(1854年)8月9日生[2]。彫刻をよくした[1]
    • 妹:こと - 文久2年(1862年)10月27日生[2]。時計商米沢余根吉に嫁ぎ、粘土をよくした[1]
  • 妻:富子 - 師任田屋徳次次女。1879年(明治12年)8月8日入籍[2]
    • 長男:諏訪好精 - 1883年(明治16年)10月11日生、1912年(大正元年)12月31日没[2]
    • 養女:諏訪蘇山 (二代) - 名は虎子。弟好直次女[2]

脚注

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  1. ^ a b c d e 小幡 1922, pp. 619–621.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj 木村 1968, pp. 3–15.
  3. ^ a b 京都伝統陶芸家協会 2012, p. 69.
  4. ^ 色絵龍燈鬼置物”. 所蔵品データベース. 石川県立美術館. 2016年3月20日閲覧。
  5. ^ 彩釉唐人物置物”. 所蔵品データベース. 石川県立美術館. 2016年3月20日閲覧。
  6. ^ 練上菓子鉢”. 所蔵品データベース. 石川県立美術館. 2016年3月20日閲覧。
  7. ^ 青磁鳳凰耳瓶”. 画像検索. 東京国立博物館. 2016年3月20日閲覧。
  8. ^ 寄贈者顕彰室”. 東京国立博物館. 2016年3月20日閲覧。
  9. ^ 青磁切立香炉”. 泉屋博古館. 2016年3月20日閲覧。
  10. ^ 飛青瓷花瓶”. 所蔵作品総合目録検索システム. 国立美術館. 2016年3月20日閲覧。
  11. ^ 梅透彫花瓶”. 所蔵品データベース. 石川県立美術館. 2016年3月20日閲覧。
  12. ^ 唐人物置物”. デジタル所蔵庫. 石川県九谷焼美術館. 2016年3月20日閲覧。
  13. ^ 一つ目小僧置物”. デジタル所蔵庫. 石川県九谷焼美術館. 2016年3月20日閲覧。
  14. ^ ギャラリー雪章”. 石川県立工業高等学校ギャラリー雪章運営委員会. 2016年3月20日閲覧。

参考文献

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  • 小幡茂「諏訪蘇山翁傳之」『大日本窯業協会雑誌』第30巻第364号、大日本窯業協会、1922年、doi:10.2109/jcersj1892.30.364_619 
  • 木村弘道「陶工・諏訪蘇山」『金沢美術工芸大学学報』第12号、金沢美術工芸大学、1968年、ISSN 04513215 
  • 京都伝統陶芸家協会創立五十周年記念誌』京都伝統陶芸家協会五十周年記念誌、2012年http://www.k-dentosan.org/d-book/_SWF_Window.html