多邇具久
多邇具久(たにぐく)は、日本神話に登場する神である[1][2][3]。谷蟆、谷蟇の字を当ててヒキガエルを指す[3][4][5][6]。
概要
[編集]大国主の国づくりの説話において登場する[1][2][3][5]。『古事記』における同段によると、大国主が出雲の御大岬(美保岬)にいたとき、海の向こうから小さな神がやって来たが、名を尋ねても答えず、誰もこの神の名を知らなかった[1][3]。このとき、かかしの久延毘古なら知っているはずと注進したのが、ヒキガエルの多邇具久であった[1][2][3]。はたして、久延毘古によって、その小さな神の名は「神産巣日神の子の少彦名神」であると知らされる[1][3]。『日本書紀』の同エピソード部分には登場しないが、谷川健一によれば、和歌山県新宮市附近ではヒキガエルを「ゴトビキ」と呼び、神武天皇の東征神話に描かれる「天磐盾」(アメノイワタテ)が神倉神社の「ゴトビキ岩」であるという話を紹介している[4][7]。
谷蟆(ヒキガエル)は、地上のどこにでも生息しているため、「国土の隅々まで知り尽くした存在」であるとか「地上を這い回る支配者」と考えられていた[3]。『万葉集』巻5の800番、山上憶良の長歌に「天雲の向伏極み 谷蟆のさ渡る極み」と謳われる[3][8]。天皇の支配領域を指し、天の雲の向こうの果てから地上はヒキガエルの歩いているようなところはすべて、という意味である[3]。憶良の歌には、大国主が天孫降臨に先行しておこなった「国づくり」に関わる谷蟆(ヒキガエル)を引き合いに出すことで、天皇への地上の支配権の献上についてが念頭にあることが示されている[3]。『万葉集』のこの箇所での表記は多尓具久である[8]。この「天雲の向伏極み 谷蟆のさ渡る極み」のフレーズは京都産業大学の『学歌』(作詞荒木俊馬、作曲團伊玖磨)にも引用されている[6]。
語源
[編集]多邇具久、タニグクの語源は「谷潜り」(たにくぐり)の意とされる[4]。「クク」はヒキガエルの鳴き声の擬声語であるという説もある[4]。ヒキガエルを指して、熊本県北部では「タンガク」、和歌山県熊野では「タンゴク」と呼ぶが、これらはタニグクの訛である[4]。
喜田貞吉は、「谷蟆とは傀儡子(くぐつ)の事ではなかろうか」「クグツは蟆人(くくびと)の義ではなかろうか」と述べている[9]。
地方名
[編集]俳人の原石鼎は随筆『暖気』[10]で深吉野には渓流の岩の間で冬眠し、寒いうちから鳴き始める蟇がおり、たにぐくと呼ばれると記している。
信仰
[編集]神話の当地である島根県松江市美保関町の美保神社の境外には、久具谷社があり、國津荒魂神とともに多邇具久命が祀られている[11]。和歌山県和歌山市の淡嶋神社にある大国主社には、瓦蟇(ヒキガエルの土偶)が奉納される風習が残る。
三重県伊勢市の二見興玉神社は、猿田彦大神を祀るが、その神使がカエルであるとされている[12]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 吉田[2009], p.72-74.
- ^ a b c 日本神話の神々、日本大百科全書、コトバンク、2015年2月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j たにぐく、國學院大學、2015年2月11日閲覧。
- ^ a b c d e 谷川[2010], p.54-55.
- ^ a b 谷蟆・谷蟇、大辞林 第三版、コトバンク、2015年2月11日閲覧。
- ^ a b 学歌、京都産業大学、2015年2月11日閲覧。
- ^ 神倉神社・天磐盾(神倉山)神武天皇顕彰碑、公益社団法人和歌山県観光連盟、2015年2月11日閲覧。
- ^ a b 万葉集/第五巻、ウィキソース、2015年2月11日閲覧。
- ^ くぐつ名義考、喜田貞吉、青空文庫、2015年2月11日閲覧。
- ^ 『前田普羅/原石鼎 (新学社近代浪漫派文庫)』所収。2007年。
- ^ ご由緒、美保神社、2015年2月11日閲覧。
- ^ お守り、二見興玉神社、2015年2月11日閲覧。
参考文献
[編集]- 『決定版 古事記と日本の神々』、吉田邦博、学習研究社、2009年10月14日発行 ISBN 4054043429
- 『先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選』、喜田貞吉、河出書房新社、2008年1月30日初版発行 ISBN 4309224776
- 『列島縦断 地名逍遥』、谷川健一、冨山房インターナショナル、2010年5月発行 ISBN 4902385910