豊川稲荷東京別院
豊川稲荷東京別院 | |
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本殿 | |
所在地 | 東京都港区元赤坂1丁目4番7号 |
位置 | 北緯35度40分36.04秒 東経139度43分58.82秒 / 北緯35.6766778度 東経139.7330056度座標: 北緯35度40分36.04秒 東経139度43分58.82秒 / 北緯35.6766778度 東経139.7330056度 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 豊川吒枳尼真天 |
創建年 | 文政11年(1828年) |
開基 | 大岡忠相 |
正式名 | 妙厳寺 豊川稲荷東京別院 |
豊川稲荷東京別院(とよかわいなりとうきょうべついん)は、東京都港区元赤坂にある曹洞宗の寺院である。豊川稲荷 妙厳寺(愛知県豊川市)の、唯一の直轄別院(飛び地境内)である。
沿革
[編集]大岡越前守忠相が豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったのを由来とする[1]。
大岡家では、三河時代より豊川稲荷を信仰していたといい、越前守の時に、江戸の下屋敷に吒枳尼天を勧請して祀ったといわれる。その後、大岡家の下屋敷が赤坂一ツ木に移転となり、豊川稲荷も引き続き移転先の屋敷で祀られた。
創建
[編集]江戸では稲荷信仰が盛んであったため、大岡邸では毎月「午の日」と22日には門を開けて、一般庶民の稲荷への参拝を許していたという[2]。
その後、文政11年(1828年)、信徒の要望により、妙厳寺が一ツ木の大岡邸の敷地の内、4分の1(約250坪)を借り受け、豊川稲荷の江戸参詣所を建立したのが、東京別院の創建とされる[3]。江戸参詣所が設けられたことにより、一般信徒も参拝が毎日できるようになり、今までの大岡邸の屋敷稲荷は「奥の院」とされた。
明治9年(1876年)、東京府は、私有地で祀られる社堂への、無許可での一般参拝を禁止する布達を出した。これにより東京参詣所も一般参拝ができなくなり、大岡邸の吒枳尼天の分霊は、豊川の妙厳寺本院へ還された。2年後、府から許可が下り、一般参拝が再開された。
明治20年(1887年)、大岡邸の一角では手狭になり、堂宇の新・増築も困難であることなどから、現在地(元赤坂一丁目)に移転した[4]。
信仰
[編集]大岡越前守は、江戸南町奉行としての活躍や、旗本から大名へ取り立てられたことでも知られる。それにあやかり江戸の豊川稲荷も、立身出世や盗難避け、失し物・失踪人などの効験で評判となる。川柳にも「石川は 盗み 豊川 盗ませず」と詠まれた[5]。
また明治以降の赤坂は、料亭や芸者などが集まる花柳界が発展し、芸道を生業とする人々からの信仰も増えた。
現在も、ジャニーズ事務所所属タレントをはじめ、著名な芸能人、スポーツ関係者からの信仰を集めていることでも知られる。
年中行事等
[編集]- 節分会追難式
2月3日、昼過ぎより各界有名人やタレントが多数参加し、豊川稲荷会館バルコニーから豆が撒かれる。
- 初午祭
2月初午日、大祭と同じく、御祈祷が時間制ではなく随時続修になる。
- 大祭
正月と5月と9月の22日に行われる。
御祈祷が時間制ではなく随時続修になり、雨天の場合を除き、野点での抹茶の接待も行われる。また、かっぽれ等の奉納演芸もある。
- 交通安全祈願祭
6月22日に行われる。
御祈祷が随時続修になる他、交通遺児募金の浄財を集める托鉢僧が境内に立つ。
- おこもり会
豊川本山の秋季大祭(11月22日。但し現在は秋季大祭が11月第三土日に日程変更されたので別日となった)の晩、別院本殿では「おこもり会」が催される。かつて交通手段が不便だった折、豊川へ行けない信徒のために明治頃から始まったといわれる。
別院独自の御文を唱和した後に御祈祷を受け、肩などに理趣分を頂戴する。
境内
[編集]一歩足を踏み入れると都会の喧騒とは隔絶した世界が開ける。
- 奥の院
- 本殿に並立して建つ鉄筋コンクリート造りの堂宇で白い拝殿と黄色に朱の本殿がある。
- こちらにも吒枳尼真天が祀られている。参道の鳥居は1995年頃から10年間ほどは無い状態であったが、現在は再建された。
- 境内社
- 「叶稲荷」は縁切り専門の稲荷。「融通稲荷」では10円の融通金を自由に持って返ることができ、1年後(または願が適った時)に利子を付けて返納する。小規模ながら「銭洗い弁財天」も祀られる。銭を洗うと数倍になって返ってくるといわれる。「大黒堂」は既に幕末に建てられていたが、長い間、本殿内で大黒天を祀る状態が続き、2007年頃に再建された。
- お茶屋と文化会館、占い鑑定所
- 茶店が境内に3軒あり、うどん等を食べられる他、境内各所へのお供え物の紅白餅と油揚げ、1合瓶入りの日本酒の3点セットも販売している。その隣には占いの先生が常駐しており、各種占いでの鑑定を受けられる。
- 2階と3階は習い事などの文化教室に貸し出されている。
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境内 (三神殿舎前)
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霊狐塚
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銭洗い弁財天
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大黒堂
その他の豊川稲荷
[編集]- 大岡稲荷社 (愛知県岡崎市大平町西上野95-2 西大平藩陣屋跡内)
- 越前守は、寛延元年(1748年)、三河に領地を加増され1万石の大名(西大平藩)となったが、岡崎に設けられた同藩の陣屋(藩庁)でも、豊川稲荷が鎮守として祀られた。近年まで、長らく同市の世尊寺境内に移っていたが、大岡家が陣屋跡地を市に寄贈し、陣屋公園として整備されたのに伴い、再び陣屋の地に戻った。
- 豊川稲荷神社 (東京都文京区目白台1-1 伝・越前守屋敷跡)
- 元の町名は高田豊川町。地元の伝承では、この神社のある場所に大岡越前守の下屋敷があったと伝えられる[7]。境内の石碑には延享2年(1745年)の文字が刻まれる。
アクセス
[編集]脚注
[編集]- ^ 武家屋敷の稲荷を由来とする稲荷神社は少なくない(ただし豊川稲荷は寺院)。同じく日本三大稲荷に数えられる、笠間稲荷東京別社(中央区日本橋浜町)も、笠間藩主・牧野家の屋敷稲荷が基となっている。
- ^ 他の武家でも、「初午」などは屋敷稲荷を開放する所は多かった。
- ^ 当時は、豊川は大岡家(西大平藩)の領地であった(後述)。
- ^ 『日本歴史地名大系』では「明治20年(1887)赤坂小学校敷地となったため青山通り北側の現在地に移転」とあるが、大岡邸が隣の赤坂小学校の敷地になるのは、大正になってからである。東京別院の移転は小学校とは関係はない。
- ^ 石川とは、むろん石川五右衛門のことである。
- ^ ただし釈迦如来が別院全体の本尊となっているわけではない。
- ^ 伝承は『高田町史』によるが、大石学『大岡忠相』(吉川弘文館)によると、高田豊川町には越前守家の下屋敷はない。この場所には、19世紀になると、同じ大岡氏で、9代将軍家重の側用人、大岡忠光の家(岩槻藩主)の下屋敷が入る。越前守家と忠光家は江戸入府の後に分かれたので、三河時代は同じ家である。また、高田豊川町という町名がつくのも明治5年であり、当地の豊川稲荷は、大岡忠光家の屋敷稲荷だった可能性が高い。
参考文献
[編集]- 内藤昌康「三遠南信産東京育豊川稲荷東京別院」『叢:東三河&西遠・西三河・南信応援誌』第53号、春夏秋冬叢書、2016年、94-95頁。