豊臣秀弘
とよとみ ひでひろ/はしば ひでひろ 豊臣 秀弘/羽柴 秀弘 | |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
国籍 | 日本 |
別名 | 長吉(仮名) |
時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 |
配偶者 | 京極高知娘?[1] |
補足 | |
出自、血縁関係など一切不明。豊臣・羽柴姓を名乗り、従四位下に昇り、将軍の徳川秀忠から進物を贈られるほどの謎の人物。 |
豊臣 秀弘(とよとみ ひでひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士。出自不明の謎の人物である[2]。
略歴
[編集]仮名(通称)は長吉という。
『久我家文書』第3巻943~944号によると、文禄5年(1596年)3月2日に従五位下・侍従に叙任されていることが確認されている。この人物については伊達政宗の庶長子である伊達秀宗であると比定されていたが、明確な根拠はほとんどない上、秀宗の仮名は兵五郎であり、少なくとも長吉では確認されていない。そもそも、一次史料では秀宗とは考えられない。
秀弘の一次史料は、現在のところ3点ある。
- 慶長4年(1599年)1月に推定される豊臣政権五大老・五奉行連署による大坂城勤番定書写で、詰衆2番衆のうちに「羽柴長吉」の名があり、つまり豊臣秀頼の馬廻衆に列していたと推定される。
- 徳川秀忠が江戸幕府第2代将軍に就任した慶長10年(1605年)以降に出したと見られる書状。書状にある日付は1月28日。花押形や文言などから、秀忠が将軍に就任した直後と推定され、書状には榊原康政が登場することから、慶長11年(1606年)1月28日の可能性が高い(康政は慶長11年に死去している)。なお、この書状は堀家に伝来していたものであるため、秀弘は堀氏の一族の可能性もある。この書状で秀忠は「羽柴長吉殿」と書いている。
- 慶長7年(1602年)4月11日に従四位下に叙任された口宣案に「羽柴長吉」「正五位下豊臣秀弘」とある。
秀宗が従四位下になったのは寛永3年(1626年)8月19日であるから、それとは明らかに異なっている。
秀弘という人物が伊達秀宗とは違うのは明らかであるが、そうなると誰なのか、ということになる。文禄5年の時点で侍従になり公家になっている上、羽柴・豊臣姓を許されているくらいであるから、相当な大名家の子だった可能性は十分ある。書状が堀家に伝来していたことから、堀氏の出自の可能性があるが、堀氏にしては余りに待遇が厚すぎること、そもそも堀家の当時の当主である堀秀治は死去する慶長11年(1606年)まで侍従の官位にあり、秀治以外の堀氏の一族、例えば子の忠俊が侍従になるとは考えにくい上、忠俊はそもそも慶長元年(1596年)生まれのため、この点からも考えにくい。
また、 豊臣秀勝の息子とする説もある。秀勝は秀吉の甥であると同時に秀忠の正室である江の前夫という立場から、その息子ならば羽柴・豊臣姓を許されるのも十分にうなずける話である。秀忠から見れば義理の息子で、家光の異父兄にあたる存在のため、自ら進物を贈るほどに優遇されていても不思議ではなく、実際に秀忠は秀勝と江の娘である完子のことも自らの養女として優遇している。ただしこの説も、秀弘が父である秀勝の遺領を相続できなかったことや、多くの書物が豊臣一族にもかかわらず(秀勝の息子であるはずの)秀弘のことに触れていない理由が全く説明できないため、信憑性はそこまで高くはない。
秀弘が公家成し、さらに従四位下にまで昇叙するとすれば、当時の家格で考えるならば徳川氏、豊臣氏、織田氏、宇喜多氏、前田氏、上杉氏、毛利氏、小早川氏である。あるいはそれより少し下の蒲生氏、丹羽氏、細川氏などが考えられる。しかし、これらの一族にそれに比定される実在の人物は今のところおらず、しかも秀忠が進物を贈るほどの相手ともなると相当な人物としか考えられない。黒田はどこかの大名家の嫡子か、あるいは当主と見ているが、その解明は今後に委ねられるとしている[2][3][4]。
なお、関ヶ原の戦いの後の状況が著されているとされている「伏見御城廓并屋敷取之絵図」などの伏見城下絵図には、伏見城の西側屋敷群の中に「羽柴長吉」と記されている。この屋敷は「筑前中納言」である小早川秀秋の屋敷の体面に位置している。秀秋は秀吉の養子であり、それから見ても秀弘が相当な政治的地位であった可能性をうかがわせている。