豊野奄智
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時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 延暦3年6月5日(784年6月26日) |
改名 | 奄智王→豊野奄智 |
官位 | 従四位下・中務大輔 |
主君 | 淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 豊野真人 |
父母 | 父:鈴鹿王 |
兄弟 | 出雲、篠原、尾張、奄智、五十戸 |
豊野 奄智(とよの の あんち/えんち)は、奈良時代の皇族・貴族。初名は奄智王、臣籍降下後の氏姓は豊野真人。知太政官事・鈴鹿王の四男。官位は従四位下・中務大輔。
経歴
[編集]「奄智」の名前は、天平勝宝2年(750年)2月24日付の官奴司解にある「奄智村」(大和国城下郡あるいは山辺郡。現在の奈良県天理市庵治町付近)[1]によるものだと推定される[2]。
天平宝字元年(757年)他の兄弟と共に豊野真人姓を与えられて臣籍降下する。
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱後に行われた叙位により、従五位下に直叙される。天平神護2年12月(767年1月)従五位上、翌年2月に図書頭に叙任される。神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩御した際に、父・鈴鹿王の旧宅を陵墓にすることになり、鈴鹿王の子息が叙位を受け、奄智は正五位下に叙せられる。
宝亀2年(771年)大判事次いで兵部大輔に任ぜられる。宝亀3年(772年)出雲守として地方官に転じるが、宝亀7年(776年)兵部大輔に再任する。
宝亀9年(778年)右中弁に任ぜられると、宝亀10年(779年)正五位上、天応元年(781年)従四位下と光仁朝末から桓武朝初頭にかけて続けて昇叙される。同年摂津大夫に叙任され、光仁天皇崩御の際は装束司を務める。延暦2年(783年)中務大輔に任ぜられる。
延暦3年(784年)6月5日卒去。最終官位は中務大輔従四位下。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 天平宝字元年(757年) 閏8月18日:臣籍降下(豊野真人姓)
- 天平宝字8年(764年) 10月7日:従五位下(直叙)
- 天平神護2年(767年1月) 12月12日:従五位上
- 天平神護3年(767年) 2月18日:図書頭
- 神護景雲4年(770年) 8月9日:正五位下
- 宝亀2年(771年) 閏3月1日:大判事。7月23日:兵部大輔
- 宝亀3年(772年) 11月1日:出雲守
- 宝亀7年(776年) 3月6日:兵部大輔
- 宝亀9年(778年) 2月23日:右中弁
- 宝亀10年(779年) 正月23日:正五位上
- 天応元年(781年) 4月15日:従四位下。5月25日:摂津大夫。12月23日[3]:装束司(光仁天皇崩御)
- 延暦2年(783年) 3月12日:中務大輔
- 延暦3年(784年) 6月5日:卒去(中務大輔従四位下)