貞松修蔵
さだまつ しゅうぞう 貞松 修蔵 | |
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生誕 |
1874年6月23日 長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市) |
死没 | 1938年3月31日(63歳没) |
出身校 | 高等師範学校(現・筑波大学) |
職業 | 教育者 |
著名な実績 | 静岡県立葵文庫長 |
貞松 修蔵(さだまつ しゅうぞう、1874年〈明治7年〉6月23日 - 1938年〈昭和13年〉3月31日)は、長崎県出身の教育者。
静岡県立中央図書館の前身である静岡県立葵文庫の初代文庫長(初代館長)。
経歴
[編集]青年期
[編集]1874年(明治7年)6月23日、長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)に生まれた[1]。父は旧大村藩士の山田悟であり、二男だった[1]。1887年(明治20年)、遠戚である貞松義一郎の養子となった[1]。1892年(明治25年)7月19日、私立大村中学校(現・長崎県立大村高等学校)を卒業した[1]。1900年(明治33年)、高等師範学校(現・筑波大学)を卒業し、英語科教員の免許を受領した[1]。
教員時代
[編集]1900年(明治33年)には福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)の教諭となり、1901年(明治34年)には熊本県師範学校(現・熊本大学)の教諭となり、1912年(大正元年)には私立興譲館中学校(現・興譲館高等学校)の英語歴史科教授嘱託となった[1]。1916年(大正5年)には岡山市視学に就任し[1]、1919年(大正8年)10月30日には岡山市立図書館の初代館長に就任した[2]。1920年(大正9年)には静岡県社会教育主事に就任した[1]。
静岡県立葵文庫長
[編集]1924年(大正13年)10月30日、静岡県社会教育主事の任を解かれ、静岡県立葵文庫(現・静岡県立中央図書館)の初代文庫長に就任して開館準備事務を開始した[1]。1925年(大正14年)4月1日には静岡県立葵文庫が開館した[1]。
1929年(昭和4年)6月、山梨稲川の百年祭の記念事業として、『山梨稲川集』全4冊を刊行した[1]。1936年(昭和11年)3月31日、静岡県立葵文庫の初代文庫長を退任し、葵文庫の事務嘱託となった[1]。
晩年
[編集]1937年(昭和12年)8月、ノエル・ショメルの『日用百科事典』厚生新編を復刻した[1]。1938年(昭和13年)3月31日、脳溢血によって死去した[1]。