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賀茂角足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
賀茂角足
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 天平勝宝9歳7月4日757年7月24日
官位 正五位上遠江守
主君 聖武天皇孝謙天皇
氏族 賀茂朝臣氏→乃呂志
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賀茂 角足(かも の つのたり)は、奈良時代貴族。氏はとも記される。朝臣官位正五位上遠江守

経歴

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天平15年(743年従五位下右京亮に叙任される。天平18年(746年)内位の従五位下、天平20年(748年)従五位上と聖武朝末にかけて順調に昇進する。

天平勝宝元年(749年)7月の孝謙天皇即位に伴って正五位下に昇叙され、8月に紫微中台が設置されると、紫微令・藤原仲麻呂の側近としてそれまでの左兵衛率に加えて紫微大忠を兼ねる。天平勝宝9歳(757年)5月に正五位上に昇叙されるが、翌6月には遠江守として地方官に遷される。同年7月に発生した橘奈良麻呂の乱では、未然に朝廷に召喚され尋問を受けた佐伯古比奈が、以下の通り角足が軍事面での活動を行っていたことを白状させられる。

その結果、7月4日に角足は反乱に加担した者と共に捕縛され、反乱成功後の皇嗣候補とされていた黄文王(多夫礼と改名)・道祖王(麻度比と改名)と並んで乃呂志(のろま者)と改名させられた後、杖で長時間打たれる拷問を受けて獄死した[1]

宝亀3年(772年)に乃呂志(無姓)から本姓賀茂朝臣への改姓を許されている賀茂比良麻呂[2]は子息か[要出典]

官歴

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続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』天平勝宝9歳7月4日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀3年8月16日条

参考文献

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