巨勢苗麻呂
表示
時代 | 奈良時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 延暦6年閏5月27日(787年7月16日) |
官位 | 従四位下・左中弁 |
主君 | 称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 巨勢氏 |
父母 | 父:巨勢堺麻呂 |
子 | 野足 |
巨勢 苗麻呂(こせ の なえまろ)は、奈良時代の貴族。参議・巨勢堺麻呂の子。官位は従四位下・左中弁。
経歴
[編集]天平宝字元年(757年)橘奈良麻呂の乱において、反乱実行時に敵側となるのを防ぐために、賀茂角足が事前に武勇に優れた者を屋敷に呼んで酒盛りをしたが、苗麻呂は高麗福信・坂上苅田麻呂らの武人と共に招待されている[1]。
称徳朝の神護景雲元年(767年)従五位下・少納言に叙任されるが、翌神護景雲2年(768年)駿河守として地方官に転じる。
のち、宝亀7年(776年)従五位上、宝亀10年(779年)正五位下、延暦2年(783年)正五位上・左中弁に叙任されるなど、光仁朝後半から桓武朝初頭にかけて順調に昇進する。のち信濃守・河内守と地方官に転じるが、延暦5年(786年)左中弁に還任する。またこの間、従四位下に叙せられている。
延暦6年(787年)閏5月27日卒去。最終官位は左中弁兼河内守従四位下。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位上
- 神護景雲元年(767年) 正月18日:従五位下。3月20日:少納言
- 神護景雲2年(768年) 7月1日:駿河守
- 宝亀7年(776年) 正月7日:従五位上
- 宝亀10年(779年) 正月23日:正五位下
- 延暦元年(782年) 2月7日:兵部大輔
- 延暦2年(783年) 正月16日:正五位上。5月15日:左中弁
- 延暦3年(784年) 4月30日:信濃守
- 延暦4年(785年) 正月15日:河内守
- 時期不詳:従四位下
- 延暦5年(786年) 8月8日:左中弁、河内守如故。9月29日:河内和泉国班田長官
- 延暦6年(787年) 閏5月27日:卒去(左中弁兼河内守従四位下)