赤坂亀次郎
赤坂 亀次郎(龜次郎、あかさか かめじろう、1858年6月13日(安政5年5月3日[1])- 1942年(昭和17年)12月12日[1][2])は、明治から昭和前期の出版人、実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]陸奥国菊多郡、のちの福島県[2]菊多郡上遠野村[3](石城郡上遠野村[1][4][5]、遠野町を経て現いわき市遠野町上遠野[1])で、赤坂吉忠の息子として生まれる[4]。村儒・小沢政美に師事し漢籍を学び[4][6]、1873年(明治6年)磐前県立英学校・惜陰舎に入学[3][4][6]。1875年(明治9年)5月に上京して慶應義塾に入塾し[3][4][6]、成績優秀で1878年(明治11年)12月に卒業した[2][4][6]。
福澤諭吉の勧めで横浜丸善商店に入店し[4]、輸出入業に従事して一年余り在勤し[4]、東京丸善本店(現丸善雄松堂)に転じ支配人となる[4]。出版のめどが立たなかった小野梓の『国権汎論』について、その出版を引き受けて世に出した[4]。小野梓が経営していた東洋舘が小野の没後に経営難となり、牟田口元学、藤田茂吉らとその整理に当たり集成社に改組して社長に就任[2][3][4][6]。外国書籍直輸入業も営み、東京商工会会員となる[1][4]。その後、集成社を閉じて新聞社を創設し、『日曜新聞』を発刊し『毎朝新聞』に改題して発行を続けたが1年半ほどで廃刊した[2][4]。その他、東京書籍出版業組合副頭取、日本図書 (株) 協議員などを務めた[2][3][5][6]。1890年(明治23年)に帰郷して、上遠銀行の設立に参画し取締役に就任した[2][5][6]。
1903年(明治36年)3月、第8回衆議院議員総選挙(福島県郡部、憲政本党)で初当選したが[4][6][7]、まもなく議会解散となり選挙地盤を安島重三郎に譲り[1]、衆議院議員に1期在任した[2]。その後、共同印刷所社長となり実業界に専念した[1][6]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(福島県第5区、1890年7月、立憲改進党)落選[8]
- 第3回衆議院議員総選挙(福島県第5区、1894年3月、立憲改進党)落選[8]
- 第4回衆議院議員総選挙(福島県第5区、1894年9月、立憲改新党)次点落選[9]
- 第8回衆議院議員総選挙(福島県郡部、1903年3月、憲政本党)当選[7]
著作
[編集]- 訳書
- ヘンリー・ダンニング・マクレッド 『麻氏理財学』赤坂亀次郎、1885年。
- トーマス・ラーレー『政学一班』集成社、1889年。
- マクレオッド『理財学(麻氏)』集成社、1889年。
- トーマス・ラーレー『政学原論』丸善、1902年。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 『福島県史 第22巻』16-17頁。
- ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』13-14頁。
- ^ a b c d e 『福島県名士列伝 一名・衆議院議員候補者略伝 前編』18-21頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『慶應義塾出身名流列伝』733-734頁。
- ^ a b c 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』10頁。
- ^ a b c d e f g h i 『大日本人物誌』あ之部65頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』21頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』37頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』94頁。
参考文献
[編集]- 榊時敏編『福島県名士列伝 一名・衆議院議員候補者略伝 前編』福島活版舎、1890年。
- 三田商業研究会編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年。
- 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『福島県史 第22巻 (各論編 8 人物)』福島県、1972年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。