コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

足立一平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あだち いっぺい

足立 一平
生誕 1906年6月26日
愛知県額田郡広幡町(現・岡崎市
死没 (1957-11-27) 1957年11月27日(51歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 大阪外国語学校ドイツ語科
職業 教育者、政治活動家
テンプレートを表示

足立 一平(あだち いっぺい、1906年6月26日 - 1957年11月27日)は、日本の教育者政治活動家。岩津農商学校(現・愛知県立岩津高等学校)の創立者として知られる。

経歴

[編集]

愛知県額田郡広幡町(現・岡崎市[注 1]に生まれる。岡崎市立広幡尋常高等小学校、愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校[1]大阪外国語学校ドイツ語科を卒業[2]文部省在外研究員としてドイツに留学。ベルリン大学卒業後、ソビエト連邦アメリカ合衆国イギリスフランススウェーデン中華民国などを視察した。また、フランスのニースで開かれた国際新教育会議に日本代表として出席した[3]

1933年(昭和8年)に帰国し、神戸高等商船学校教授に就任。1935年(昭和10年)、愛知県立岩津高等学校の前身である岩津農商学校を創設した。

戦時中は、仏領インドシナ独立同盟総裁として日本に亡命していたクォン・デを助け、その副総裁としてホー・チ・ミン派とバオ・ダイ派の両派の調整にあたり、同国独立運動に功績を残した[4]

1945年(昭和20年)暮れ、竹内京治榊原金之助杉山新樹天野末治らと共に岡崎文化協会設立を計画[5]。同協会は翌1946年(昭和21年)2月3日に創立された[6]

1952年(昭和27年)11月1日から2年間、岡崎市教育委員長を務めた[7]

1955年(昭和30年)3月21日、岡崎市長選挙に革新系無所属を名乗って立候補する意向を表明[8]。しかし日本社会党左派からも右派からも推薦申し入れを断られ[9]、同党右派の長坂信治県議は現職2期目の竹内京治の支援に回った[10]。岡崎地区労協はそれぞれの労働組合の自主判断に任すという態度をとった[11]。元衆議院議員の千賀康治も市長選に名乗りを上げ、足立の劣勢は明らかであったが、三者ほぼ互角の戦いのなか竹内が辛くも3選を果たした[注 2]

1957年(昭和32年)11月27日、市内井田町字池田の自宅で脳溢血のため死去[3]。51歳没。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 額田郡広幡町は1914年(大正3年)10月1日に岡崎町に編入された。岡崎町は1916年(大正5年)7月1日に市制施行し、岡崎市となった。
  2. ^ 1955年の岡崎市長選挙は4月30日に行われた。各候補者の得票数は以下のとおり。竹内:29,160票、千賀:24,750票、足立:22,422票[12]

出典

[編集]
  1. ^ 『岡高同窓会名簿 1986』 愛知県立岡崎高等学校同窓会長、1986年10月1日、33頁。
  2. ^ 久米康裕編『新編 三河知名人士録』尾三郷土史料調査會、1939年10月21日、272頁。 
  3. ^ a b 愛知新聞』1957年11月29日。
  4. ^ 東海新聞』1957年11月29日。
  5. ^ 福岡寿一編 編『近藤孝太郎』東海タイムズ社、1973年11月1日、61頁。 
  6. ^ 『新編 岡崎市史 総集編 20』新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日、99頁。 
  7. ^ 教育要覧(令和元年度)”. 岡崎市教育委員会. p. 104 (2019年8月). 2020年7月26日閲覧。[リンク切れ]
  8. ^ 『東海新聞』1955年3月22日、1面、「市長選に足立氏出馬 竹内、千賀氏とともに三巴戦」。
  9. ^ 『東海新聞』1955年4月29日、1面、「終盤の作戦本部を往く 青年層への浸透計る 北部方面の票を期待する足立候補」。
  10. ^ 榊原金之助「岡崎版・昭和史 ―新聞記者三十年― (40)」 『東海タイムズ』1960年12月12日。
  11. ^ 『東海新聞』1955年4月28日、「終盤の作戦本部を往く 勝利街道をバク進 勤労市民の支持を期待する竹内候補」。
  12. ^ 岡崎の選挙記録 - 岡崎市長選挙” (PDF). 岡崎市ホームぺージ. 2021年12月12日閲覧。