辻哲也
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府箕面市桜ケ丘 |
生年月日 | 1949年1月19日 |
没年月日 | 2024年6月5日(75歳没) |
身長 体重 |
177 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1972年 ドラフト7位 |
初出場 | 1973年8月3日 |
最終出場 | 1973年8月12日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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辻 哲也(つじ てつや、1949年1月19日 - 2024年6月5日)は、大阪府出身のプロ野球選手(外野手)。
息子は元プロ野球選手・プロ野球コーチの辻竜太郎(選手時代の登録名は「竜太郎」)。
来歴・人物
[編集]浪商高校では1966年に夏の甲子園大阪府予選準々決勝に進出するが、再試合の末、北陽高に敗退。チームメートに大原和男投手がいた。明治大学へ進学。東京六大学野球リーグでは1年上の古屋英雄、大学同期の今井恒夫の好投もあって1969年春季リーグで優勝。同年の全日本大学野球選手権大会では、東海大の上田二郎に抑えられ2回戦で敗れる。同年の第8回アジア野球選手権大会日本代表。リーグ通算75試合出場、262打数79安打、打率.302、1本塁打、23打点。ベストナイン3回。他の大学同期に一塁手の鈴木一比古らがいた。
卒業後に日本楽器へ入社。1971年から都市対抗に2年連続出場。1972年の都市対抗では左翼手、四番打者として起用され、新美敏、池谷公二郎両投手を擁し勝ち進む。決勝では新美が三菱自動車川崎を完封、初優勝を飾った[1]。同年の第20回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出される。
1972年ドラフト会議で中日ドラゴンズから7位指名を受け入団。社会人屈指の好打者として期待されたが、出場機会に恵まれず1975年に引退した。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1973 | 中日 | 4 | 3 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .333 | .333 | .333 | .667 |
通算:1年 | 4 | 3 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .333 | .333 | .333 | .667 |
背番号
[編集]- 43 (1973年 - 1975年)
脚注
[編集]- ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
- ^ “【オリックス】辻竜太郎打撃コーチの父・哲也さんが死去 元中日外野手75歳”. スポーツ報知 (2024年6月7日). 2024年6月7日閲覧。