平井政遒
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(近藤幸殖から転送)
平井 政遒(ひらい まさかつ / まさる[1]、1865年5月31日(慶応元年5月7日) - 1950年(昭和25年)[1])は、明治期から昭和期にかけての内科医。日本陸軍軍医、最終階級は陸軍軍医総監(中将相当)。日本赤十字社病院院長、宮内省御用掛。若狭国小浜藩出身。
生涯
[編集]1865年5月31日((旧暦)慶応元年5月7日)、小浜藩典医平井三琢の長男として福井の雲浜村に誕生する[2][3][4]。1876年に東京外国語学校入学[5]。1889年(明治22年)度東京帝国大学医科大学を首席で卒業、同期には山極勝三郎・田代義徳・入沢達吉等がいる[6]。卒業後陸軍軍医となり、日清戦争に従軍した後、1896年(明治29年)12月『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』編纂委員、陸軍薬局方(第二版)編纂委員、陸軍衛生会議委員等を歴任した。その間、1896年(明治29年)ニコライ2世 (ロシア皇帝)戴冠式に出席する 山縣有朋に随行し、ヨーロッパを歴訪[3]、1897年(明治30年)軍事衛生を研究するためドイツ留学を認められ、1899年(明治32年)に帰国した[7]。日露戦争時には東京予備病院長となり傷病兵治療に従事した[3]。
1906年(明治39年)7月日本赤十字社病院副院長(内科担当)に就任し、森林太郎陸軍医務局長の強い推薦[8]により1914年(大正3年)[3]同病院長となった[3][9]。1915年(大正4年)軍医総監に昇任し、1920年(大正9年)休職を命じられ、5月予備役に編入、12月宮内省御用掛を仰せつかった[3][9]。戦後も雑誌への記事掲載を行っている。
栄典
[編集]- 1915年(大正4年)11月7日 - 銀杯一組[10]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[11]
- 1919年(大正8年)8月11日 - 正四位[12]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[13]
- 外国
エピソード
[編集]- 宮中某重大事件[15]
→詳細は「宮中某重大事件」を参照
- 1921年(大正10年)、裕仁親王(当時皇太子、のちの昭和天皇)の妃に内定していた久邇宮良子女王(のちの香淳皇后)について、家系に色盲の遺伝があるとして、元老山縣有朋らが女王及び同宮家に婚約辞退を迫った所謂『宮中某重大事件』がおきた。ことの発端である良子女王の兄久邇宮朝融王が、学習院の身体検査において色弱だったことが発見され、このことを山縣に告げたのが、宮内省御用掛であると共に山縣の顧問医を勤め、又山縣側近四天王の一人と言われた平井政遒だと言われている。平井は中村宮内大臣に諮り、石黒忠悳から貞明皇后(大正天皇皇后)に色盲についてそれとなく吹き込まさせ、上野で開かれた日本教育博覧会において皇后御前で平井に『恐るべき色盲症』と題した講演を行わせ、皇后の不安をつのらせた。
論文・著作
[編集]- 「中外医事新報(413)」 P7「廿三歲男子ニ於ケル原發性肝臟癌轉移性肺臟癌ノ一例 平井政遒」(日本医史学会 1897年6月)
- 「中外医事新報(538)」 P1「麻拉里亞ニ後發シタル腦脊髓散在性硬化症ノ一例 平井政遒・志賀樹太郞」(日本医史学会 1902年8月)
- 「中外医事新報(563)」 P1192「生理的蛋白尿ニ就テ 平井政遒・楠瀨正俊」(日本医史学会 1903年9月)
- 「神経学雑誌 1(2)」 P56「内科學 麻拉里亞性散在性硬化症 平井政遒」(日本神経学会事務所 1902年6月)
- 「神経学雑誌 20(6)」 P323「ウェルニッケー氏上部出血性腦灰白質炎ノ剖檢例ニ就テ 平井政遒・佐藤淸」(日本神経学会事務所 1921年7月)
- 「日本医事新報(1304)」 P21「わが師わが友 石黑忠悳先生 平井政遒」(日本医事新報社 1949年4月)
- 「橋本綱常先生」「平井政遒氏」の項(日本赤十字社病院 1936年)
家族
[編集]- 父・平井三琢(1790年) ‐小浜藩の典医。[16]
- 妻・くま(1873年生) ‐ 元亀山藩士・近藤幸止の娘。父近藤幸止(努、百助、1843-1909)は亀山藩家老の次男に生まれ、岩倉使節団に同行して渡米し帰国後内務官僚となり、同省庶務局権少書記官時代の1881年には新設された獨逸学協会の会員となって同会の出版人を務め、山口県、新潟県、茨城県の大書記官(現在の副知事)を務めた[17][18]。新潟時代には同県有志教育会会長となり、1886年には成瀬仁蔵らと新潟女学校設立発起人に名を連ねるなど、洋行帰りの官僚として明治前期の英学教育に貢献した[19]。幸止の父・近藤幸殖(鐸山、織部、1813-1890)は、平巌几兮の二男に生まれ、亀山藩家老・近藤幸孝の養嗣子となり[20]、1850年に家老に就き、藩の兵制改革に着手、禁門の変への関与を幕府に疑われて一時幽閉されたが、1868年に軍事奉行として復帰、維新後1869年に大参事となった[21]。幸殖の妻・近藤捨子は幸孝と京の医師・山脇道作[22][23]の娘お通との子で、佐々木弘綱門下の歌人として知られた[24]。幸止の長男でくまの兄・近藤止敬は資産家[25]。
- 長女・ちかゑ(1892年生) ‐ 今村明光の妻。三輪田高女卒。[16]
- 長男・平井正民(1897年生) ‐ 陸軍軍医大佐。岳父の西巻豊佐久(-1910)は米国留学中の1877年、苦学生仲間と米国における日本人初のキリスト教団体「福音会」をサンフランシスコで設立した人物で、帰国後1883年に横浜正金銀行に入り、1893年上海出張所初代主任、1906年ロンドン支店支配人を経て帰国後本店副支配人を務めた[26][27]。
- 二女・美代(1901年生) ‐ 太田広太郎の妻。東京女高師付属高女卒。娘婿に久須美康馬。[16]
- 三女・勇子(1906年生) ‐ 稲森実(大蔵省官僚)の妻。東京女高師付属高女卒。[16]
- 五女・幸(1915年生) ‐ 本多紀元(大蔵技師・通商産業技官)の妻。東京女高師付属高女卒。[16][28]
脚注
[編集]- ^ a b 『日本近現代医学人名事典』512頁。
- ^ 「現代人名辞典」 Pヒ4「平井政遒」の項(古林亀治郎編 中央通信社 1912年)
- ^ a b c d e f 「昭和人名辞典」 Pヒ10「平井政遒」の項(光人社 1933年)
- ^ 平井政遒『大正名家録』 原田道寛 二六社編纂局 1915
- ^ 平井政遒『人事興信録 3版(明44.4刊)く之部―す之部』
- ^ 「東京帝国大学一覧 従明治23年至24年」(東京帝国大学 1891年)
- ^ 「幕末明治海外渡航者総覧 第1巻」 P254「平井政遒」の項(手塚晃・国立教育会館編 柏書房 1992年)
- ^ 「森鴎外 作家と作品」(渋川驍著 筑摩書房 1964年)
- ^ a b 「陸海軍将官人事総覧 陸軍編」(外山操編 芙蓉書房 1981年)
- ^ 『官報』第1255号・付録「叙任及辞令」1916年10月5日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2106号「叙任及辞令」1919年8月12日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。
- ^ 「宮中某重大事件」(大野芳著 講談社 1993年)
- ^ a b c d e 平井政遒『人事興信録 第13版下』1941
- ^ 近藤幸止(読み)こんどう こうしコトバンク
- ^ 獨逸学協会会員名簿獨協中学・高等学校同窓会
- ^ 新潟女学校と成瀬仁蔵― キリスト教教育をめぐって 片桐芳雄 愛知教育大学研究報告, 教育科学編. 2017, 66, p. 179-187.
- ^ 近藤織部(こんどうおりべ)/近藤幸殖(こんどうさきたね)/近藤鐸山(こんどうたくざん) 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
- ^ 近藤織部コトバンク
- ^ 伊沢蘭軒森鴎外、1917
- ^ 初代山脇道作とその門人達の伝記に関する新資料 / 八木淳夫日本医史学雑誌 = Journal of the Japanese Society for the History of Medicine 45(2)(1 日本医史学会 1999-04
- ^ 女流著作解題女子学習院、1939年、p122
- ^ 近藤止敬『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 横浜正金銀行員の肖像写真 川島忠之助資料から寺嵜弘康、2013 年(平成 25 年)10 月、神奈川県立博物館研究報告―人文科学― 第40号
- ^ 移民社会とキリスト教 ― 美山貫一のハワイ日本人移民伝道 ― 吉田亮 キリスト教社会問題研究 (31), 141-188, 1983-03-01 同志社大学人文科学研究所キリスト教社会問題研究会
- ^ 本多紀元国会会議録
参考文献
[編集]- 泉孝英編『日本近現代医学人名事典』医学書院、2012年。ISBN 978-4-260-00589-0