近藤用将
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近藤 用将(こんどう もちまさ、元和8年(1622年) - 元禄7年1月5日(1694年1月29日)は、江戸時代前期の寄合旗本、遠江国井伊谷領主。近藤用義の子。初名は用時。通称、数馬、彦九郎。兄弟に上杉長貞室。室は本多忠相の娘。子に用慶、用賢。
概要
[編集]父が祖父で井伊谷藩主・近藤秀用より先に死去していたため、寛永8年(1631年)、秀用の遺領から5,450石を分知され、井伊谷近藤家の祖となる。寛永9年(1632年)9月、井伊谷の八幡宮本殿を再興した。寛永14年2月3日(1637年2月27日)、初めて所領の井伊谷に入るも、閏3月21日(5月15日)には江戸へ出立した。
正保4年(1647年)、幕命により甲府城を守衛し、明暦元年(1655年)、下館城を守衛する。万治元年9月8日(1658年10月8日)、内藤政吉・秋山正房・町野幸宣とともに江戸中定火之番(定火消)を命ぜられると、同年閏12月28日(1659年2月19日)には布衣を着ることを許される。翌万治2年1月4日(1659年2月25日)、江戸の上野東照宮の前で徳川家綱臨席のもと、同職の定火消と出初式を挙行した。これが「日本における出初式の始まり」である。
寛文3年(1663年)持筒頭となり、延宝元年(1673年)には百人組頭となる。天和2年(1682年)、職を辞して寄合となる。貞享元年7月19日(1684年8月29日)の辞仕により隠棲領300俵を賜る。入山と号する。