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近藤用義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
近藤用義
時代 江戸時代前期
生誕 慶長元年(1596年[注釈 1]
死没 寛永3年10月13日1626年12月1日[1]
別名 通称:彦九郎[1]
戒名 浄銕[1]
墓所 神奈川県足柄下郡箱根町早雲寺[1]
幕府 江戸幕府
氏族 近藤氏
父母 父:近藤秀用 母:本多信俊の娘[1]
兄弟 季用用可、用宗、用義、女子(米倉平大夫妻)、女子(小笠原権之丞妻、のち九鬼長兵衛妻)、女子(由良貞繁妻) [2]
養兄弟:忠吉(西郷家貞の子)
井上正就の養女[1][注釈 2]
用将、女子(上杉長貞妻)[1]
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近藤 用義(こんどう もちよし)は、江戸時代前期の旗本近藤秀用の四男。のちに秀用の遺領を分割して受け継ぐ「五近藤家」の一つ・井伊谷近藤家の家祖にあたる。

生涯

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慶長元年(1596年[注釈 1]近藤秀用の四男として生まれる[1]。母は秀用の正室(本多信俊の娘)で、近藤季用用可は同母兄である[注釈 3]

慶長年中(1596年 - 1615年)、徳川家康御目見[1]。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には父とともに従軍[1]。翌慶長20年/元和元年(1615年)の夏の陣にも従軍し、首級2つを挙げた[1]。戦後は小姓組に属する[1]

寛永元年(1624年)、秀用が小田原城番に任じられると[1][注釈 4]、秀用からの要請によって小田原に赴き、その職務を補佐した[1]。寛永3年(1626年)、小田原で没する[1]。享年31[1]。同地の早雲寺に葬られた[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 没年・享年より逆算。
  2. ^ 実父は竹田十左衛門[3]
  3. ^ 『寛政譜』には他に三男・近藤用宗(牛之助)の名が見られるが、生母については記載がない[2]
  4. ^ 『寛政譜』の用義の項では、「御凱旋ののちめされて御小性組に列し、その後父秀用小田原の城番たるのとき、請むねあるにより、彼地にいたりて其職務を助く」[1]。秀用の項目によれば、秀用は小田原城番に2度任じられており、最初は慶長19年(1614年)、2度目は寛永元年(1624年)である[4]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『寛政重修諸家譜』巻第八百四十三「近藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.410
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第八百四十三「近藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.404
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百四十一「井上」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.242
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第八百四十三「近藤」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第五輯』p.403