コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

近鉄大阪線列車衝突事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近鉄大阪線列車衝突事故
現場となった旧・総谷トンネル(大阪側坑口)
現場となった旧・総谷トンネル(大阪側坑口)
発生日 1971年(昭和46年)10月25日
発生時刻 15時58分頃(JST)
日本の旗 日本
場所 三重県一志郡白山町(現・津市)
路線 近鉄大阪線
運行者 近畿日本鉄道
事故種類 列車衝突事故
原因 自動列車停止装置の故障
制動解除時の不適切取扱
統計
死者 25人
負傷者 288人
テンプレートを表示

近鉄大阪線列車衝突事故(きんてつおおさかせんれっしゃしょうとつじこ)とは、1971年昭和46年)10月25日三重県一志郡白山町(現・津市)にある近鉄大阪線垣内(かいと)東信号所(現在複線化により廃止)付近の総谷トンネル内で発生した列車衝突事故である。一般的には「青山トンネル事故」とも呼ばれる。

概要

[編集]

1971年10月25日15時37分頃、近鉄大阪線西青山駅 - 東青山駅(両駅は現在とは異なる場所にあった)間の青山トンネル東口手前200 m地点で、上本町(現・大阪上本町)近鉄名古屋行き特急114列車(12200系12202F12000系12001Fの4両編成[1]、主要駅停車の通称「乙特急」)が、自動列車停止装置(ATS)故障のため誤停止した。この日は本件事故以前にも、青山トンネル内で上り5本、下り1本の列車が同様に緊急停止する事象が起こっていた。原因究明のため現場に派遣された信号保守要員が地上子周りを検査したが、故障原因が特定できなかったため、信号保守要員や東青山駅の助役は電話で中川信号区に連絡し、計測器その他を持ってくるよう要請した。

運転士はATSを解除しようとしたがブレーキが緩解できず、停止地点は下り33 ‰の急勾配であったため、やむを得ず車輪に手歯止め(ハンドスコッチ)を挟み、各車輌の供給コック(ブレーキ装置からブレーキシリンダーにエアを供給するコック)をカットし、ブレーキシリンダーのエアを全部抜くという非常措置を行った。これは制動不緩解故障の際の基本手順通りであった。

しかし、列車停止を聞いて東青山駅から駆けつけた同駅助役が、運転士との何らかのやりとりの後に手歯止めを外してしまい、運転士は供給コックをカットしたまま運転室に戻ってブレーキを緩解した。その結果、114列車は走り出したが、供給コックがカットされていたことからエアの再充填ができず、ブレーキが効かない状態で連続33 ‰の下り勾配を暴走し始めた。この時、114列車の乗客は乗務員から後部車両へ避難するよう指示された、と証言している。

15時58分頃、114列車は東青山駅 - 榊原温泉口駅間にあった垣内(かいと)東信号場の安全側線の分岐器を速度144 km/hで乗り越えて突破し直後に脱線転覆、そのまま総谷トンネルに突入した。3両目以降は同トンネル入口付近の壁に激突して止まったが、先頭の2両が横転した状態でトンネル内へ突入、直後に対向してきた賢島京都近鉄難波(現・大阪難波)行き特急1400N(1400K)列車(12200系12226F10100系C編成10118F18200系18205Fの7両編成[1])が前方の異変を察知して非常ブレーキをかけるも間に合わず、両列車はトンネル内で正面衝突した。

これにより死者25名(1400N・1400K列車の運転士・車掌と114列車に乗っていた東青山駅助役の計3名および乗客22名)、重軽傷者288名[2][1]を出す大惨事となった(中日新聞1971年11月9日朝刊[3]や、『関西の私鉄』[4]には負傷者354人と記されている)。

なお、1400N・1400K列車は前方5両(12200系・10100系)が大阪難波行きであった一方、後方2両(18200系)は京都行きで、折しも京都で医療関係者の学会が行われる予定であったことから複数の医師が乗車しており、その医師らによって応急治療が行われた。その他、地元白山町上之村地区をはじめ、榊原温泉では旅館組合が中心となって負傷者の救出に、白山町役場では対策本部を手早く設け、町役場職員、地元消防団、地元住民等が現場にいち早く到着し救出活動、地元婦人団体が炊き出しを行い、救助作業に大いに貢献した[5][6]

事故直後の模様は、事故現場に唯一直接たどり着くことができた報道機関であったNHKテレビ取材班によって、全国に報道された。

事故後の調査

[編集]

1400N・1400K列車の運転士・車掌と、東青山駅助役の3人が死亡したため、事故後の調査では1400N・1400K列車での衝突時とその前後での全面的な状況や、114列車の運転士が供給コックをカットしたまま運転室に戻った理由や、手歯止めを外す際の運転士と助役の連絡状況などは明確には解明できなかったが、1973年6月に津地方裁判所で行われた裁判で弁護側の主張はほとんど採用されず、同地裁は名古屋行き特急の運転士に禁錮10か月、執行猶予2年を宣告。検察側・弁護側の双方ともに控訴がなかったため、裁判は一審で確定した。裁判で有罪の確定を受け、近鉄はこの運転士を懲戒解雇処分とした[7]

その後の調査で、事故の発端となったATS故障の原因は、ATS電源装置のヒューズの端子締め付けナットの緩みからくる接触不良によるものと判明した。事故当日はATS装置の故障が相次いでおり、本件事故で5回目の故障だった。それ以外にも現場を通過した列車は多数あったが、接触不良の間欠性によって通電している場合としていない場合があり、列車によっては正常に通電していたのでATSの誤作動が発生せずに現場を無事に通過できたものと推測されている。また事故を起こした特急は、東青山駅から2.7km名古屋寄りの垣内西信号所前を異常な速度で通過した事実があり、この事故はブレーキが何かの原因で壊れたうえに、33‰の急勾配のため暴走した[8]

影響

[編集]

事故現場が山間のトンネル内という悪条件が重なり、普段は地元の人たちでさえ滅多に通らない獣道を使って、救急車が待機する場所まで負傷者を人力で運んだ。体力が尽き、担架に載せられたまま絶命した負傷者もいたという[9]。遺体は現場の付近の寺[10]や小学校の講堂に運び込まれた[11]。事故現場のおよその状況が分かったのは事故発生から2時間後、死傷者数の情報が掴め始めたのは3時間以上も経ってからだった。16時頃、東青山変電所から「ブレーカーが飛んだ」「架線の断線事故があった」との報告があり調べたところ、本件事故が判明したという状態だった[12]

復旧作業は10月28日の午前中に終了し、同日13時16分、事故から69時間ぶりに運転再開した[13]。同日から翌日にかけて、バラストを固めるため事故現場を中心に30 km/hの徐行運転を実施した。しかし、この時点では名阪ノンストップ特急は引き続き運転を取りやめていた[14][15]

114列車の各車両(12200系12202F・12000系12001F)は廃車となった[16]が、1400N・1400K列車の各車両(12200系12226F・10100系10118F・18200系18305F)は修理の上で復旧されている。

対策

[編集]

本件事故を重く見た近鉄は、かねてより予定していた大阪線の完全複線化を前倒しして行う事を決定した[2]。まず、事故区間を含む榊原温泉口駅 - 垣内東信号所間に新総谷トンネル、新梶ケ広トンネルの2つの複線トンネルを開通させ、この区間を先行して複線化した。その後、1975年11月に青山トンネルに替わる新たな複線用トンネル(新青山トンネル)が開通したことで工事が完成し、西青山駅および東青山駅も同時に移転。かつての青山峠越えの旧駅などは廃止された[2]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c ジェー・アール・アール発行の「決定版 近鉄特急」(1985年発行)記事内の記述
  2. ^ a b c 『鉄道ピクトリアル 12月号臨時増刊「近畿日本鉄道」』電気車研究会、2018年12月10日、127-128頁。 
  3. ^ 「ATSなどを検査 運輸省特別監査二日目」昭和46年(1971年)11月9日 中日新聞朝刊
  4. ^ 『関西の私鉄』、朝日新聞大阪本社社会部編、p.223
  5. ^ 「それ救援だ、薬だ 地元民、一丸の大活躍」昭和46年(1971年)10月26日 中日新聞三重版
  6. ^ 「悪夢の日から10年」昭和56年(1981年)10月25日 中日新聞三重版
  7. ^ 『関西の私鉄』、朝日新聞大阪本社社会部編、p.224
  8. ^ 「原因ほぼブレーキ故障」「信号所前を異常通過 この日ATS5回故障」昭和46年(1971年)10月26日 朝日新聞夕刊
  9. ^ 「鉄塊の下で「助けて!」“早く、切断機はないか”」昭和46年(1971年)10月26日 読売新聞 朝刊
  10. ^ 事故翌年の1972年7月、寺の敷地内に慰霊碑が建てられた。
  11. ^ 「身元わからぬ遺体も」昭和46年(1971年)10月26日 中日新聞 朝刊 12版、15面
  12. ^ 「おそまつな事後措置 架線の断線で事故知る」昭和46年(1971年)10月26日 日本経済新聞 朝刊
  13. ^ 『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年12月、近畿日本鉄道、p.379
  14. ^ 「1番列車通過にホッと “霊安かれ”と現場に花束」昭和46年(1971年)10月29日 伊勢新聞 朝刊 7版
  15. ^ 当時の名阪ノンストップ特急は東海道新幹線に客を奪われて利用率が低迷していたため、運転再開の優先順位が低かったというのもある。
  16. ^ これらの車両は製造から2 - 4年ほどしか経過していなかった。

参考文献

[編集]
  • 伊勢新聞 1971年10月26日号・10月29日号
  • 読売新聞 1971年10月26日号朝刊 - 全国46都道府県(沖縄返還前のため)で発行の読売新聞すべての地域版でのトップ記事にこの事故の記事と写真が掲載されている。
  • 中日新聞 1971年10月26日号朝刊・三重版、1971年11月9日号朝刊、1981年10月25日号三重版
  • 日本経済新聞 1971年10月26日号朝刊
  • 「関西の私鉄」著者:朝日新聞大阪本社社会部

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
  • 国会会議録
  • 津地方裁判所・判決文
  • 「日本地理学会」発表論文
    • 三木理史「1971年近畿日本鉄道大阪線正面衝突事故をめぐる地理的基底要因」『E-journal GEO』第17巻第2号、日本地理学会、2022年、230-248頁、doi:10.4157/ejgeo.17.230ISSN 1880-81072024年7月5日閲覧