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遠藤忠二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
遠藤 忠二郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県浜松市
生年月日 1917年9月20日
身長
体重
174 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手内野手外野手
プロ入り 1936年
初出場 1936年5月16日
最終出場 1939年3月24日[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

遠藤 忠二郎(えんどう ちゅうじろう、1917年9月20日[2] - 戦死)は、静岡県出身のプロ野球選手。ポジションは投手内野手外野手

来歴・人物

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浜松一中(現・静岡県立浜松北高等学校)から早稲田大学に進学。1936年に早大を中退して、大東京の結成に参加。投手で入団したが、当時の大東京軍は弱小球団かつ選手不足だったため、野手との二刀流で試合に出場する事となった。1936年秋季シーズン、大東京は5勝21敗2引き分け(うち16連敗〈1リーグ時代の最多連敗記録〉がある)と悲惨な成績だったが、遠藤はエースとして活躍。4勝5敗、防御率3.03とチームの勝ち頭の成績を残した(このシーズンの大東京の投手では、他に桜井七之助しか勝ち星を挙げた投手はいなかった)。1937年春季シーズン途中に名古屋軍へ、1938年からは東京セネタースに移籍。名古屋やセネタースでも、投手と野手の二刀流をこなした。1938年秋季シーズンに中島治康巨人)に次ぐ、5本塁打(バッキー・ハリスイーグルス〉と並んでタイ記録)をマークし、長打力も見せつけた。投手以外には遊撃手以外のポジションで試合出場歴があり、ユーティリティプレイヤーとしても活躍した。

1939年3月24日大阪戦(後楽園球場[1]を最後に引退し、応召。その後、戦死した(死没場所・没年月日は不明)。東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。

浜松元城小~浜松一中時代は早稲田大学の小楠勝仁とバッテリーを組んでいた。元城小の一学年下に松井栄造がいた。遠藤、小楠、松井の三人は田町(浜松市中区田町)出身で家も近所同士。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1936春夏 大東京 7 27 24 2 5 1 0 0 6 3 1 -- 0 -- 3 -- 0 9 -- .208 .296 .250 .546
1936 20 74 64 2 13 0 2 0 17 11 2 -- 0 -- 9 -- 1 11 -- .203 .311 .266 .577
1937 4 7 6 2 1 0 0 0 1 0 0 -- 0 -- 1 -- 0 1 -- .167 .286 .167 .453
名古屋 14 30 25 1 6 1 0 0 7 4 0 -- 0 -- 5 -- 0 2 -- .240 .367 .280 .647
'37春計 18 37 31 3 7 1 0 0 8 4 0 -- 0 -- 6 -- 0 3 -- .226 .351 .258 .609
1937 37 104 88 4 18 5 0 0 23 12 0 -- 1 -- 13 -- 2 8 -- .205 .320 .261 .581
1938 東京セネタース 18 35 32 4 8 1 1 0 11 2 0 -- 0 -- 3 -- 0 4 -- .250 .314 .344 .658
1938 36 149 132 13 32 5 1 5 54 21 2 -- 3 -- 14 -- 0 18 -- .242 .315 .409 .724
1939 4 16 13 1 2 0 0 0 2 1 0 -- 0 0 3 -- 0 0 -- .154 .313 .154 .467
通算:4年 140 442 384 29 85 13 4 5 121 54 5 -- 4 0 51 -- 3 53 -- .221 .317 .315 .632

年度別投手成績

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W
H
I
P
1936春夏 大東京 6 5 3 0 0 0 5 -- -- .000 176 39.0 31 2 24 -- 2 19 1 0 24 19 4.38 1.41
1936 13 11 5 0 0 4 5 -- -- .444 392 85.2 62 0 65 -- 2 50 0 1 38 29 3.03 1.48
1937 3 3 1 0 0 1 1 -- -- .500 73 16.0 18 0 7 -- 0 1 0 0 10 6 3.38 1.56
名古屋 8 8 5 1 0 3 4 -- -- .429 250 55.1 46 1 36 -- 3 16 0 0 30 28 4.55 1.48
'37春計 11 11 6 1 0 4 5 -- -- .444 323 71.1 64 1 43 -- 3 17 0 0 40 34 4.29 1.50
1937 5 4 1 0 0 0 2 -- -- .000 125 25.1 26 2 20 -- 0 7 1 0 21 16 5.54 1.82
1938 東京セネタース 8 8 1 0 0 1 3 -- -- .250 169 35.0 38 0 29 -- 2 4 0 0 23 17 4.37 1.91
1938 2 2 0 0 0 0 2 -- -- .000 36 5.1 13 0 4 -- 0 0 0 0 14 8 12.00 3.19
通算:3年 45 41 16 1 0 9 22 -- -- .290 1221 261.2 234 5 185 -- 9 97 2 1 160 123 4.23 1.60
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

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その他の記録
  • 同一年に2球団で勝利:1937年 ※史上初

背番号

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  • 4 (1936年 - 1937年春途中)[3]
  • 22 (1937年春途中 - 1937年秋)[4]
  • 21 (1938年 - 1939年)[5]

脚注

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  1. ^ a b 1939年東京セネターススタメンアーカイブ
  2. ^ 鎮魂の碑(野球殿堂博物館)
  3. ^ 松竹ロビンス 背番号4 - 背番号Maniax -
  4. ^ 中日ドラゴンズ 背番号22 - 背番号Maniax -
  5. ^ 翼 背番号21 - 背番号Maniax -

外部リンク

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関連項目

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