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那須資胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
那須 資胤
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正11年2月11日1583年4月3日
改名 森田資胤→那須資胤
別名 森田次郎[1]
官位 修理大夫[1]
氏族 那須氏森田氏→那須氏
父母 父:那須政資、母:大田原資清[1]
兄弟 高資資胤資郡
蘆野資豊
資晴牧野顕高、正洞院(佐竹義宣正室)
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那須 資胤(なす すけたね)は、下野国戦国大名那須氏20代当主。

生涯

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那須氏18代当主・那須政資の次男として誕生した。森田氏を継いだが、異母兄で19代当主の高資と対立し、一時逐電する。しかし、天文20年(1551年)、高資が芳賀高定の調略により千本資俊に殺害されると、帰参して家督を継いだ。

当初は常陸国佐竹氏と組み、結城氏蘆名氏と戦っていたが、弘治元年(1555年)に北条氏康足利義氏と手を結んだ。

永禄3年(1560年)、佐竹義昭結城晴綱と争うと蘆名盛氏が晴綱を、資胤は義昭を支援した。3月26日の小田倉の戦いで、資胤は自身が負傷する程の苦戦を強いられ[2]、その際に家臣の大関高増大田原綱清兄弟を叱責し責任を追及したのを機に、大関氏大田原氏らとの対立が表面化。資胤は同年5月15日、大関高増の家臣・松本通勝に働きかけ高増の暗殺を謀るも、高増が佐竹義昭と通じ自分を討とうとするのを知ると、興野義重に備えさせた[3]。高増は資胤を排斥するため、佐竹義重の弟・義尚(那須資綱)の擁立を画策する。以後、佐竹義重の援軍を得た高増と永禄6年(1563年)から永禄10年(1567年)まで戦いを繰り返し[4]烏山城下まで侵攻された事もあったが[5]、いずれも撃退した。永祿9年(1566年)8月24日には、大関高増を支援した佐竹義重の家臣・佐竹義堅と下野神長で戦い大勝している[6]。永禄11年(1568年)、高増・綱清兄弟は、資胤の隠居を条件に和睦した[7]

元亀元年(1570年)、佐竹義重が下野大山田城を攻め落とすが[8]、元亀3年(1572年)には佐竹氏とも和睦した。この際に資胤の娘と当時3歳の佐竹義宣の婚約を成立させ、武茂地方と茂木地方を佐竹氏に割譲し、那須領に佐竹氏の所領を許す形となった。

天正2年(1574年)には、白河義親の陸奥赤館城を巡って義親と佐竹義重が争った際、蘆名盛氏らと共に義親に助勢する[9][10]。天正6年(1578年)には、佐竹氏を中心に宇都宮氏結城氏江戸氏大掾氏と常陸小川台(現在の茨城県筑西市)で盟約を結び、後北条氏に対抗した。

死去の年については天正14年(1586年)説もある。

脚注

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  1. ^ a b c 『那須系図』
  2. ^ 『史料綜覧』第9編之910 494頁
  3. ^ 『史料綜覧』第9編之910 497頁。
  4. ^ 『史料綜覧』第9編之910 566頁。
  5. ^ 『史料綜覧』第9編之910 651頁。
  6. ^ 『史料綜覧』第9編之910 639頁。
  7. ^ 大日本史料』第10編之1 73頁。
  8. ^ 『大日本史料』第10編之4 714頁。
  9. ^ 『大日本史料』第10編之21 48頁。
  10. ^ 『大日本史料』第10編之24 204頁。

出典

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  • 『下野国誌』(『那須系図』)
  • 那須記
  • 『別本那須記』
  • 関八州古戦録
  • 『佐竹家譜』
  • 『彰考館本那須記』
  • 『常陸誌料』(後佐竹氏譜)
  • 『那須譜見聞録』(十一)