郡家車塚古墳
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郡家車塚古墳 | |
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墳丘全景(左に前方部、右奥に後円部) | |
所属 | 三島古墳群 |
所在地 | 大阪府高槻市岡本町 |
位置 | 北緯34度51分15.70秒 東経135度35分38.85秒 / 北緯34.8543611度 東経135.5941250度座標: 北緯34度51分15.70秒 東経135度35分38.85秒 / 北緯34.8543611度 東経135.5941250度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 |
墳丘長85.6m 高さ7.4m(後円部) |
埋葬施設 |
割竹形木棺粘土槨1基 割竹形木棺直葬1基 |
出土品 | 装身具類 |
築造時期 | 4世紀末 |
史跡 | なし |
地図 |
郡家車塚古墳(ぐんげくるまづかこふん)は、大阪府高槻市岡本町にある古墳。形状は前方後円墳。史跡指定はされていない。
概要
[編集]大阪府北部、淀川北岸の低位段丘(富田台地)北端部に築造された古墳である。これまでに数次の発掘調査が実施されている[1]。
墳形は前方後円形で、前方部を西方に向ける[1]。墳丘は2段築成[1]。墳丘表面では葺石・円筒埴輪列(鰭付円筒埴輪含む)が認められる[1]。埋葬施設は後円部墳頂における割竹形木棺粘土槨(第1主体:後円部中央)・割竹形木棺直葬(第2主体:第1主体の東側)で、2基は東西に並んで北頭位とし、試掘において装身具類が検出されている[2][1]。以上より、築造時期は古墳時代中期の4世紀末頃と推定される[1]。
遺跡歴
[編集]- 1965年(昭和40年)、測量調査(大阪府立島上高等学校)[3]。
- 1982年(昭和57年)、鰭付円筒埴輪の採集[3]。
- 1992年度(平成4-6年度)、測量調査・発掘調査・地中探査(高槻市教育委員会、1994年・1995年・1996年に報告書刊行)[3][4][2]。
- 1998年度(平成10年度)、宅地建設に伴う発掘調査(高槻市教育委員会、1999年に報告書刊行)[5]。
墳丘
[編集]墳丘の規模は次の通り[1]。
- 墳丘長:85.6メートル
- 後円部 - 2段築成。
- 直径:51.3メートル
- 高さ:約7.4メートル
- 前方部 - 2段築成。
- 高さ:約3.8メートル
出土品
[編集]古墳からの出土品のうち、埋葬施設の試掘で検出されたものは次の通り[2][1]。
- 第1主体
- 黒漆塗槍頭 1
- 第2主体
- 四獣鏡 1 - 直径12.4センチメートル。
- 漆塗竪櫛 若干
- 硬玉製勾玉 1
- 碧玉製勾玉 1
- グリーンタフ製勾玉 14
- 碧玉製管玉 4
- グリーンタフ製管玉 5
- 碧玉製棗玉 1
- 碧玉製・グリーンタフ製算盤玉 18
- ガラス小玉 26
- 碧玉製・グリーンタフ製小玉 227
また出土埴輪としては、普通円筒埴輪(II期新相)・朝顔形埴輪・鰭付円筒埴輪のほか、形象埴輪として家形埴輪・壺形埴輪がある[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 郡家車塚古墳(続古墳) 2002.
- ^ a b c 嶋上遺跡群20 1996.
- ^ a b c 嶋上遺跡群18 1994.
- ^ 嶋上遺跡群19 1995.
- ^ 嶋上遺跡群23 1999.
参考文献
[編集]- 地方自治体発行
- 「郡家車塚古墳」『嶋上遺跡群18(高槻市文化財調査概要XX)』高槻市教育委員会・高槻市立埋蔵文化財調査センター、1994年 。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 「郡家車塚古墳」『嶋上遺跡群19(高槻市文化財調査概要XXI)』高槻市教育委員会・高槻市立埋蔵文化財調査センター、1995年 。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 「郡家車塚古墳」『嶋上遺跡群20(高槻市文化財調査概要XXII)』高槻市教育委員会・高槻市立埋蔵文化財調査センター、1996年 。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 「郡家車塚古墳」『嶋上遺跡群23(高槻市文化財調査概要XXV)』高槻市教育委員会・高槻市立埋蔵文化財調査センター、1999年 。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 事典類
- 高島徹「車塚古墳 > 郡家車塚古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 森田克行「車塚古墳 > 郡家車塚古墳」『続 日本古墳大辞典』東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991。