郭虔瓘
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郭 虔瓘(かく けんかん、生没年不詳)は、斉州歴城の人で唐代の武将。智勇兼備の良将と称され重んじられた。戦術は巧みであったが、政略の才はなかったといわれる。玄宗の初期に西域、漠北の国境を守った。実封一百戸を玄宗より賜った。最終官職は右威衛大将軍。
正史における列伝は下記のとおり。
経歴
[編集]- 開元2年(714年)
- 正月、郭虔瓘は当時、検校右驍衛将軍、兼北庭都護、翰海軍経略使、金山道副大総管、招慰営田等使、上柱国、太原県開国子(典拠:旧唐書)。右驍衛将軍兼北庭都護、金山道副大総管(典拠:資治通鑑)であった。
- 2月、突厥可汗默啜が息子の同娥特勤と妹婿の火抜頡利発、石阿失畢へ兵を与えて派遣し、北庭都護府を包囲した際、北庭都護郭虔瓘は見事にこれを打ち破った。同娥が単騎で城下へ迫ったが、道の脇へ郭虔瓘の伏兵がこれを斬った。この功により冠軍大将軍、安西副大都護、太原郡開国公(典拠:旧唐書)となった。
- 6月、北庭都護郭虔瓘を昇進させ、涼州刺史、河西諸軍州節度使を兼任させた。
- 10月、突厥の十姓胡禄屋等の諸部が北庭都護府を詣でて降伏した。朝廷は都護の郭虔瓘にこれを撫存するよう命じ、郭虔瓘は彼らを迎接した。
- 11月、朝廷は左散騎常侍解琬を北庭都護府へ派遣し、突厥から降伏した者を宣慰することとした。細かいことは、解琬の便宜に任せたため、郭虔瓘は解琬に従い突厥から降伏した者を慰問した。
- 開元3年(715年)
- 開元4年(716年)
- 720年前後に右威衛大将軍を最後の昇進として軍営で亡くなった。死後、安西都護は張嵩に代わった。