都紀女加
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都紀女加(つきめか、都紀女加王)は、『先代旧事本紀』に伝わる古代日本の皇族。
第15代応神天皇の曾孫(三世孫)で、筑志米多国造の始祖とされる。『日本書紀』『古事記』に記載はない。
系譜
[編集]『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、第15代応神天皇皇子の稚沼毛二俣命(日本書紀:稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)、古事記:若沼毛二俣王)の孫にあたるとしており、応神天皇の曾孫(三世孫)にあたる[1]。
墓
[編集]墓は、宮内庁により佐賀県三養基郡上峰町坊所にある都紀女加王墓(つきめかのみこのはか、北緯33度19分49.63秒 東経130度25分8.47秒)に治定されている[1][2]。遺跡名は「上のびゅう塚古墳(かみのびゅうづかこふん)」[3]。
古墳は前方後円墳で、前方部を西に向ける[1]。墳丘長は49メートルで5世紀の築造と推定されるが、埋葬施設は明らかでない[1]。墳丘外表からは埴輪・葺石が見つかっているほか、墳丘周囲に周溝が巡らされたことが明らかとなっている[1]。昭和18年(1943年)に宮内省(現・宮内庁)によって都紀女加王の墓に治定された[1]。
一帯の丘陵地には目達原古墳群(めたばるこふんぐん)として、大塚古墳・古稲荷塚古墳・稲荷塚古墳・塚山古墳・瓢箪塚古墳・無名塚古墳・横田南古墳等が存在していた[4]。しかし昭和17年-18年(1942年-1943年)の目達原飛行場(目達原駐屯地)建設に伴って破壊され、上のびゅう塚古墳の北側に設けられた墳丘模型に改葬されている[4][5]。なお、これら古墳群の近くには吉野ヶ里遺跡がある。
後裔国造
[編集]『先代旧事本紀』「国造本紀」では、次の国造が後裔として記載されている。