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酒井忠純

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さかい ただひさ

酒井 忠純
生誕 (1886-08-25) 1886年8月25日
山形県大宝寺村
死没 (1964-07-05) 1964年7月5日(77歳没)
山形県鶴岡市
職業 研究家、銀行家
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酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年明治19年)8月25日 - 1964年昭和39年)7月5日)は、昭和時代前期の銀行家軍人陸軍中尉従七位考古学研究家。荘内銀行初代頭取。庄内民俗学会会長、山形県文化財保護協会理事。幼名は徳太郎、号は松堂。

略歴

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最後の藩主である酒井忠宝の長男として鶴岡郊外大宝寺村(現:鶴岡市)で生まれる[1]。若い頃から考古学に興味を持ち、庄内各地を踏査し、史料収集につとめ、長年にわたり遺跡遺物の調査と保存につとめた[1]。その一方で、金融界でも活躍し、1939年(昭和14年)9月に菅實のあとを受け、六十七銀行頭取に就任し、41年4月には合併後の荘内銀行頭取に推され、44年10月まで在任し[1]、48年10月までは会長を務めた[2]。大日本帝国陸軍中尉。

1950年(昭和25年)の酒井忠良による(財)以文会(後の致道博物館)創設にあたってはこれに協力し、その後の発展に寄与[1]。51年に行われた県内の考古学研究家による吹浦遺跡、玉川遺跡の学術調査では調査団の中心を担った[1]

1964年7月5日死去。享年77。鶴岡の大督寺に葬られる[1]

栄典

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妻子

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  • 妻・高子 ‐ 酒井忠篤_(庄内藩主)の三女
  • 養嗣子:酒井忠惇(子爵松平親信二男)[4]
  • 長女:喜久子(忠惇の妻)
  • 次女:正子(佐治秀太郎の妻)
  • 三女:喜美子(下平英夫の妻)
  • 四女:時子(佐伯照明の妻)
  • 五女:里子(武川潤平の妻)
  • 六女:岸子(佐伯朝明の妻)
  • 七女:喜佐子
  • 八女:喜和子

著書

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共著

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  • 『吹浦遺跡』

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『新編庄内人名辞典』327頁。
  2. ^ 『創業百年史』309頁。
  3. ^ 『官報』1910年03月12日 敍任及辭令
  4. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、635頁。

参考文献

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  • 『昭和人名辞典』
  • 荘内銀行百年史編纂室編 『創業百年史』 荘内銀行、1981年。
  • 庄内人名辞典刊行会編『新編庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会、1986年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。ISBN 4642036717

関連項目

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ビジネス
先代
-
荘内銀行頭取
初代:1941年 - 1944年
次代
木村九兵衛