重田徳松
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重田 徳松 しげた とくまつ | |
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生誕 |
1891年1月12日 日本・千葉県 |
死没 | 1959年12月9日(68歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1912年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
重田 徳松(しげた とくまつ、1891年〈明治24年〉1月12日 - 1959年〈昭和34年〉12月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]千葉県出身。重田留五郎の三男として生れる。千葉中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第14連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(第35期)を卒業。近衛野戦砲兵連隊中隊長となる。
1925年(大正14年)5月、参謀本部付勤務となり、第8師団参謀、陸軍技術本部付、独立山砲兵第1連隊大隊長、東京湾要塞参謀などを経て、1932年(昭和7年)8月、砲兵中佐に昇進。1933年(昭和8年)8月、野砲兵第10連隊付となり、第2師団参謀、野砲兵第10連隊長を歴任し、1936年(昭和11年)8月、砲兵大佐に進級。1938年(昭和13年)3月、第6師団参謀長に就任し日中戦争に出征。1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に昇進し野戦重砲兵第1旅団長となる。
1940年(昭和15年)3月、砲兵監部付となり、陸軍野戦砲兵学校幹事、同校長を歴任し、1941年(昭和16年)10月、陸軍中将となり太平洋戦争を迎えた。1942年(昭和17年)3月、第35師団長に親補され中国に出征した。1943年(昭和18年)3月、砲兵監に就任し、第72師団長を経て、1945年(昭和20年)4月、第52軍司令官に発令され、千葉県佐倉で本土決戦に備えていたが、交戦することなく終戦を迎えた。同年12月、予備役に編入された。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[1]。