野村かつ子
のむら かつこ 野村 かつ子 | |
---|---|
『月刊婦人展望』1967年11月・12月号より | |
生誕 |
1910年11月26日 日本 京都府京都市 |
死没 | 2010年8月21日(99歳没) |
出身校 | 同志社大学文学部 |
職業 | 社会運動家 |
野村 かつ子(のむら かつこ、1910年11月26日 - 2010年8月21日)は、日本の社会運動家。生活協同組合の組織など、消費者運動に取り組んだ[1]。
経歴
[編集]京都市西陣の商家[2]、稲垣家に生まれ[3]、カツと名付けられる[1]。姉・貞(後の鑓田貞子)の影響もあり、早くからキリスト教に傾倒する[4]。
京都府立京都第一高等女学校(京都府立鴨沂高等学校の前身)から、同志社女子専門学校(同志社女子大学の前身)英文科に進み[5]、賀川豊彦、中島重などの薫陶を受ける[6]。
女専在学中に同志社大学法学部の学生だった野村治一と結婚[4][5]。かつ子は1931年に女専を卒業し[7]、夫との間に長女と長男をもうけた[4]。夫・治一は、同志社大学法学部に助手として残り、やがて助教授に昇任したが、1937年に肺結核のため他界した[4]。その後、かつ子は、同志社大学文学部で社会事業と倫理学を学び[5]、1942年に卒業した[7]。
かつ子は女専卒業後から消費組合の活動に関わっていたが[7]、第二次世界大戦後には、日本生活協同組合同盟、日本婦人有権者同盟の役員となり[7]、主婦連合会や婦人職業協会の組織化に関わった[1]。
1957年からは総評主婦の会に依って消費者運動を展開し[1]、1969年には日本消費者連盟の創設に関わった[8]。アメリカ合衆国の消費者運動を主導したラルフ・ネーダーの著作を日本に広め[1][8]、さらにネーダーの日本招聘を実現した[5]。
1975年には海外市民活動情報センターを創設し、以降も様々な消費者運動団体の役員などを務めた[5][8]。
1999年には、自伝『消費者運動・88年の歩み』を出版した。
後に森まゆみは、野村かつ子を回顧して、「...すばらしい活動家。そして最後までまったく偉そうにならなかった人だ。」と評した[9]。
おもな著書
[編集]単著
[編集]共著
[編集]訳書
[編集]- (今沢正躬との共訳) ラルフ・ネーダー 著、アメリカは燃えている、亜紀書房、1972年
- (富田昌志と共同の監訳)エスター・ピーターソン (Esther Peterson) 編、ピープル・パワー:助け合って生活を変える、亜紀書房、1983年
- (奥田暁子との共訳)ヨーロッパの生協に関するラルフ・ネーダータスクフォース 著、未来へのビジョン : ヨーロッパの生協から学ぶ (1-3)、協同図書サービス、1989年
- (水口哲と共同の監訳、海外市民活動情報センター 訳)ハリー・C・ボイト (Harry C. Boyte)、ヘザー・ブース (Heather Booth)、スティーブ・マックス (Steve Max) 著、アメリカン・ポピュリズム:暮らしを守り政治を変える市民活動、亜紀書房、1983年
脚注
[編集]- ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus『野村かつ子』 - コトバンク
- ^ 野村, 1999, p.9.
- ^ 野村, 1999, p.90.
- ^ a b c d 野村, 1999, p.17.
- ^ a b c d e 野村, 1999, 奥付.
- ^ 野村, 1999, pp.14-15.
- ^ a b c d 野村, 1999, p.117. - 略年譜
- ^ a b c “消費者運動家の野村かつ子さんが死去”. 日本経済新聞. (2010年8月23日) 2020年5月16日閲覧。
- ^ 森まゆみ. “森まゆみ 震災日録 / 1月12日 野村かつ子”. 映像ドキュメント.com. 2020年5月16日閲覧。
参考文献
[編集]- 野村かつ子『消費者運動・88年の歩み』おもだかブックス、1999年、121頁。
外部リンク
[編集]- 【空腹時代の夢と満腹時代の不安と】野村かつ子さん(前) - 宮崎隆典による、2000年6月1日付の記事