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野村三四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
のむら さんしろう

野村 三四郎
生誕 柳川三四郎
(1865-11-13) 1865年11月13日
常陸国
死没 (1933-06-07) 1933年6月7日(67歳没)
墓地 永稱寺
別名 野村桃邨(俳号)
出身校 濠西塾(濠西精舎)
職業
親戚
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野村 三四郎(のむら さんしろう、1865年11月13日慶應元年9月25日〉- 1933年〈昭和8年〉6月7日)は元大蔵官僚で、後に田中鉱山の監査役を務めた。

経歴

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第二代・柳川宗左衛門(秀勝)の三男[1]として常陸国鹿島郡若松村(現在の茨城県神栖市)に生まれ[2]、後に東京府の野村せいの養子となり野村家を継ぐ。1880年(明治13年)に東京へ出ると、浅草にある小永井小舟の私塾・濠西塾で漢学を学んだ。さらに中央大学の前身である法学院に入った後、中途退学[3]して1885年(明治18年)より大蔵省預金部に勤める[注 1]。1893年(明治26年)にこれを辞す[4]田中長兵衛の田中商店に入店、会計主任を務めた。

1901年(明治34年)11月、長兵衛の死去にともなってその長男・安太郎が二代目長兵衛を襲名し店を継いだ。1917年(大正6年)に組織が株式会社化され、1919年(大正8年)7月末、三四郎は田中鉱山株式会社の監査役に就任[5][注 2]。最盛時は国内銑鉄生産量の過半数を占めた田中家の鉱山製鉄事業であったが、第一次大戦後の不況や関東大震災の影響などもあり大きな負債を抱える。1924年(大正13年)3月、ついに会社は存続不能となり、事業は三井鉱山に引き継がれた。

その後、長男の茂は三井鉱山に勤め、三四郎は引退。1933年(昭和8年)6月7日[7]に亡くなるまで趣味の俳句を続けた。住所は東京市本郷区駒込曙町十二。戒名は廓然院釋大悟居士。台東区の永稱寺に埋葬された。

俳句

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俳号は桃邨。竹馬吟社同人。蔦風会等で活動した[7]
「時雨雲 山より晴れて 湖の色」[8]他多数。

家族

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  • 養母・野村せい - 1845年頃の生まれ[注 3]。三四郎を養子として野村家を継がせた。
  • 妻・てる - 1869年(明治2年)8月24日生まれ。東京府、斎藤森吉の長女[2][注 4]
  • 長女・まつ - 1889年(明治22年)生まれ。日本高等女学校を卒業し、三菱合資会社に勤める堀録亮[10]に嫁ぐ。
  • 長男・茂 - 1899年(明治32年)7月生まれ。富士前尋常小学校[注 5]では一番の優等生とされ第一中学校へ進学[3]。明治大学商科を卒業し三井鉱山に勤め、後に愛知製鋼東京出張所長[11]。妻・とく(1904年生)は茨城県、林龍の三女。
  • 二男・豊治 - 1902年(明治35年)生まれ。昭和3年3月、慶應大経済学部卒。
  • 二女・ひろ - 1907年(明治40年)に生まれ、東京女学校を卒業。清水組技師、高階政夫に嫁ぐ。
  • 三男・文武 - 1910年(明治43年)2月25日生まれ[12]明治薬学専門学校を卒業[4]し薬剤師となる。同校OBらによる山岳会に属し、東京市電気局病院に勤務[13]。後に渋谷区の交通局病院で薬剤科長。

脚注

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注釈

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  1. ^ 「優等生と其家庭」[3]によれば1890年(明治23年)から1903年(明治36年)まで大蔵省とあるが、年数に関しては同一文内で辻褄が合わないため誤記と推定。
  2. ^ 取締役社長は田中長兵衛、専務取締役が田中長一郎、取締役には香村小録、中大路氏道、吉田長三郎。そして監査役が横山金治と野村三四郎[6]
  3. ^ 1913年発行の「優等生と其家庭」[3]によれば祖母せつ子(68)とあるが、三四郎の祖母が当時68才では若過ぎる為、養母せいの可能性がある。
  4. ^ 「大日本婦人録」[9]や「人事興信録」によれば斎藤新八の長女。
  5. ^ 明治27年9月、本郷区の富士前町にて創立。昭和20年2月の空襲により校舎を焼失し翌年廃校。跡地には文京区教育委員会によって富士前小学校跡の碑が立てられている。

出典

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  1. ^ 松倉慶三郎 編『幽香録』報効会、1926年、幽香院累系の頁。NDLJP:922700/5 
  2. ^ a b 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録』(第3版)、1930年、ノ之部 17頁。NDLJP:3044845/952 
  3. ^ a b c d 水下恭一 編『優等生と其家庭』教育通信社、1913年、222頁。NDLJP:949829/126 
  4. ^ a b 『茨城県紳士録』(昭和10年)有備会出版部、1935年、779頁。NDLJP:1232429/427 
  5. ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第2163号、付録 2頁、1919年10月20日。NDLJP:2954276/19 
  6. ^ 『工商時論』3(9)、工業商事通信社、1919年9月、丙 14頁。NDLJP:1538969/41 
  7. ^ a b 『筑波』8月號 (66)、にひはり社、1933年8月、36頁。NDLJP:1486261/21 
  8. ^ 素人社 編『現代俳家人名辞書』(新版)素人社書屋、1932年、325頁。NDLJP:1874535/189 
  9. ^ 『大日本婦人録』婦女通信社、1908年、の之部 561頁。NDLJP:779870/349 
  10. ^ 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録』(第3版 タ-ワ之部,補遺)、1930年、ホ之部 22頁。NDLJP:1688502/361 
  11. ^ 『全日本紳士録』(昭和25年版)人事興信所、1950年、ノ之部 5頁。NDLJP:3007853/259 
  12. ^ 『都政人名鑑』(1962年版)都政新報社、1962年、534頁。NDLJP:3033577/283 
  13. ^ 『日本薬剤師録』(昭和30年版)医学公論社、1955年、東京都 89頁。NDLJP:2425426/123