野村篁園
表示
野村 篁園(のむら こうえん、安永4年(1775年) - 天保14年6月29日(1843年7月26日))は、江戸時代後期の儒者、漢詩人。名は直温(なおあつ)、字は君玉、通称は兵蔵。別号に静宜軒・西荘・霽荘・玉松山叟・紫芝山樵があり[1]。法号は仁譲院である。
経歴
[編集]安永4年(1775年)、幕臣・野村直超の子として江戸に生まれる。古賀精里の門に学び、寛政9年(1797年)に家督を継ぐ。享和元年(1801年)に昌平黌教授方出役。文化14年(1817年)に儒者見習となり、天保3年(1832年)儒者(両番上席)となり、浜松藩の儒者としても勤める。天保14年(1843年)に没す。享年69[1]。
作風
[編集]填詞に長じ、古賀侗庵・小島蕉園らと詩社をむすんだ。門下に友野霞舟・川上麟巷・石川柳渓・設楽翠巌などがいる。篁園の詩は「厳整にして重厚」と評され、江湖社の詩人たちが庶民的であったのに対し、官学派と呼ばれる[2]。
飛鳥山 | |
茂樾千重掩水坡 | 茂樾 千重して水坡を掩う, |
路従飛鳥影邊過 | 路は飛鳥影辺より過ぎ, |
躋攀不問花零落 | 躋攀 問わず 花の零落せしを, |
獨向晴崖揖遠螺 | 独り晴崖に向って遠螺に揖(ゆう)す。 |
著書
[編集]- 『篁園詩鈔』
- 『篁園全集』
- 『採花集』
- 『静宜慚藁』
- 『篁園吟草』
- 『篁園集唐』