野波令蔵
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野波 令蔵[1](野波 令藏[2]、のなみ れいぞう、1848年2月17日(嘉永元年1月13日)[3] - 没年不明)は、日本の醸造家、実業家、政治家、地主[注 1]。野波商店[6]。幼名は安太郎[1]。族籍は鳥取県平民[7]。
経歴
[編集]鳥取県西伯郡米子町法勝寺町(現・米子市法勝寺町)の人[1]。常重の長男[1]。生家は紺屋業を営む[1]。幼時、村夫子に従い、漢学句読を受け、算数習字を修学する[1]。家督を継承し、令蔵と改め、7代の主となる[1]。1872年以来公職公事に就いたが、1872年に法勝寺町肆長を申付けられたのを初めとする[1]。
1886年に紺屋業を廃止し、醤油醸造業を開始する[1]。また西伯家畜会社社長[8]、鳥取県会議員・同副議長[9][注 2]、米子町会議員、学務委員、米子銀行監査役、米子町名誉助役などをつとめる[1]。
1917年12月、米子町功労者旌表規定により功労章並に金50円を贈られ、その功労を表彰される[3]。
人物
[編集]『陰陽八郡郡勢一斑』では、「名望高く、温厚の人格者なり」と評される[8]。
宗教は出雲大社教[1]。平素、敬神の心が厚い[1]。日本赤十字社正社員である[1]。住所は米子市法勝寺町[3]。
家族・親族
[編集]- 野波家
- 父・常重(紺屋) - 熱誠忠実を旨とし、業務に奮励し、原料精選それに加えて染物等に対し殊に品物を丁寧に注意を加え、粗悪な取扱いをしなかったため、にわかに隆況を致し、広く世間に信用を博し、当時「米子紺屋」と云えば遠近その名を知らない者はなかった[1]。
- 親戚
- 三島盛之助(八束銀行常務取締役) - 三島盛之助の弟の妻は野波令蔵の孫[11]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『島根鳥取名士列伝 中』118 - 123頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月12日閲覧。
- ^ 『大日本紳士鑑』776頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月17日閲覧。
- ^ a b c 『米子自治史』924、932頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月12日閲覧。
- ^ 『国民日用便覧 明治43年刊』西伯郡之部3頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月12日閲覧。
- ^ 『米子経済九十年の歩み』77頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月12日閲覧。
- ^ 『帝国実業名宝 酒類、生酢、醤油、味噌之部』178頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月12日閲覧。
- ^ 『官報 1893年07月05日』官報 第3004号 42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月12日閲覧。
- ^ a b 『陰陽八郡郡勢一斑』139頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月12日閲覧。
- ^ 『鳥取県議会年報 昭和57年』93頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月12日閲覧。
- ^ 『鳥取県議会史 下巻』332頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月12日閲覧。
- ^ 『人事興信録 第8版』ミ20頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月15日閲覧。
参考文献
[編集]- 大蔵省印刷局編『官報 1893年07月05日』日本マイクロ写真、1893年。
- 妹尾久造編『大日本紳士鑑』経済会、1895年。
- 深田豊市編『島根鳥取名士列伝 中』博進館、1903 - 1906年。
- 多納佐三郎編『国民日用便覧 明治43年刊』報光社、1910年。
- 﨏雨村編『陰陽八郡郡勢一斑』陰陽八郡時報社、1917年。
- 商進社編『帝国実業名宝 酒類、生酢、醤油、味噌之部』商進社、1919年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 米子市編『米子自治史』米子市、1939年。
- 鳥取県議会事務局編『鳥取県議会史 下巻』鳥取県議会、1954年。
- 米子商工会議所編『米子経済九十年の歩み』米子商工会議所、1981年。
- 鳥取県議会事務局調査課編『鳥取県議会年報 昭和57年』鳥取県議会事務局、1983年。