コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

野田清 (海軍軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
野田 清
報道部長時代
生誕 1887年7月6日
死没 (1974-03-29) 1974年3月29日(86歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1907年 - 1938年
最終階級 海軍中将
除隊後 帝国アルミニウム統制会社取締役
テンプレートを表示

野田 清(のだ きよし、1887年明治20年)7月6日 - 1974年昭和49年)3月29日)は、日本海軍軍人大本営海軍報道部長。階級は海軍中将北海道出身。

人物・来歴

[編集]

略歴

[編集]

北海道出身。旧制函館中学校卒業。海軍兵学校35期。席次は172人中40番。同期生に近藤信竹高須四郎野村直邦がいる。「浅間」分隊長として第一次世界大戦に出征した。野田は海軍大学校乙種、砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で、のちに戦艦鹿島」砲術長を務めている。皇太子裕仁親王の欧州訪問の供奉艦「鹿島」の分隊長として渡欧した際は、海軍士官に芸術の素養が必要であるとの報告書を提出した[1]。帰国後海大甲種17期を卒業。

佐官時代は艦隊では第三艦隊第二艦隊の各参謀軽巡洋艦鬼怒」副長、軍政では軍務局局員兼教育本部員、海軍省副官大臣秘書官、臨時調査課長、軍令では海大戦略教官[2]軍令部第二課長(後任は南雲忠一)などを歴任した。

中佐時代には半年間欧米出張を命じられている。1928年(昭和3年)12月大佐へ進級し、1931年(昭和6年)ジュネーブ会議全権委員随員となり、帰国後海軍軍事普及部委員長に就任した。就任時期は資料により異なる[3]が、前任の委員長は艦隊派の忌諱に触れ解任された坂野常善であった。

支那事変により大本営が設置されたことに伴い、海軍軍事普及部は廃止されて海軍報道部へ移行し、野田は初代部長を務める。この間の1934年(昭和9年)11月に少将へ昇進している。野田は報道部長を1年務めて1938年(昭和13年)11月中将へ昇進し翌月予備役となった。その後は帝国アルミニウム統制会社の役員を勤めた[4]1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]

海軍報道部

[編集]

大本営海軍報道部は宣伝・報道担当の第一課、防諜担当の第二課、検閲担当の第三課から構成され、軍部の宣伝言論統制の一翼を担った機関である。1899年(明治32年)成立の軍機保護法を基本法とし、昭和海軍は海軍省令、海軍省通達によって具体的な報道規制事項を定めていた。太平洋戦争時の大本営発表は、当初は正確な情報提供の意図もあった[6]が、戦局の悪化と共に発表内容が真実と乖離していくこととなる。

稚松会

[編集]

野田は旧会津藩士族出身で父は野田寅之進である。野田家は戊辰戦争後に北海道へ移住した。海軍将官となった野田は稚松会の評議員を務めている[7]

栄典

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 『諸報告』野田清「随感随筆」
  2. ^ 『海へ帰る』「海軍大学校時代」
  3. ^ 『日本海軍史』では1934年7月28日、『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』では同年11月15日
  4. ^ 神戸大学付属図書館 大阪朝日新聞1940年(昭和15年)9月17日付 2011年6月28日閲覧
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
  6. ^ 『大本営発表という権力』第一章
  7. ^ 財団法人 稚松会名簿』
  8. ^ 『官報』第7701号「叙任及辞令」1909年3月2日。
  9. ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。

参考文献

[編集]
  • アジア歴史資料センター
    1. 軍艦浅間准士官以上名簿』(防衛省防衛研究所所蔵 海軍省-遣英遣米-T3-13-19 海軍省公文備考類 遣米枝隊関係書類 巻15 Ref C11081162800)
    2. 諸報告』(防衛省防衛研究所所蔵 海軍省-公文備考-T10-13-2557 Ref C08050150900)
  • 会津郷土資料研究所『慶應年間 会津藩士人名録』 勉強堂書店
  • 海軍歴史保存会編 『日本海軍史』(第9巻) 第一法規出版
  • 財団法人 稚松会名簿』(1937年12月)
  • 外山操編 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
  • 保坂正康『大本営発表という権力』講談社文庫
  • 毎日新聞社『1億人の昭和史』(⑩ 不許可写真史)
  • 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
  • 横山一郎『海へ帰る』原書房