金井俊行
表示
金井 俊行(かない としゆき、1850年4月12日(嘉永3年3月1日)- 1897年(明治30年)8月27日)は、最後の長崎区長。字は「世迪」。通称は「清之助」。号は「晴岡」。
経歴
[編集]1850年(嘉永3年)に長崎西山で生まれる。家は代々長崎代官手代。祖父の金井総蔵は長崎代官高木作右衛門忠任の要請に応じて1786年(天明6年)に武州から長崎へ移り住む。
俊行は8歳で儒者長川鉄壁の門下に入り漢籍を修める。16歳で長崎代官役所書役になり、長崎県少書記官、佐賀県大書記官を経て、1886年(明治19年)から1889年(明治22年)の長崎市市制施行までの間、長崎区長(長崎市長の前身)を務め、夜学校創設や下水道の改良、上水道敷設等を行った。長崎区長退任後は長崎市会議長、南高来郡長、韓国釜山居留民団長を務めた。
長崎の郷土史関係の古文書収集に努め、長崎区役所(長崎市役所の前身)に収めた(書籍182部291冊、図画78枚・8軸・6帖)。
年表
[編集]- 1850年(嘉永3年)3月1日 - 長崎西山に誕生。
- 1865年(慶応元年)- 16歳で長崎代官所書役となる。
- 1878年(明治11年)5月 - 長崎県少書記官に昇進。
- 1883年(明治16年)- 佐賀県大書記官に就任。
- 1886年(明治19年)
- 1887年(明治20年)11月 - 磨屋町の鶴鳴小学校に夜学校を開設。
- 貧困家庭の子弟教育のため夜学校の設立を計画し、区会(長崎市議会の前身)に提案したが受け入れられず、自ら費用を捻出して設立した。
- 1889年(明治22年)
- 1890年(明治23年)
- 1891年(明治24年)3月 - 区長時代に着手した本河内高部水道工事が(現在の本河内ダム)完成。鉄管と濾水施設を持つ近代的水道であった。
- 1894年(明治27年)
- 1896年(明治29年)1月 - 病により離職し帰国。長崎市で療養する。
- 1897年(明治30年)8月27日 - 逝去(享年47)。墓所は西山椿原。
栄典
[編集]著書・出版物
[編集]- 「長崎年表」(全3巻)- 略称「金井年表」と呼ばれている。
- 「長崎略史」(全35巻)
- 「長崎市条例及規則私案」(1889年(明治22年)8月出版[6])
- 「寛政四年島原地変記」(1891年(明治24年)8月8日出版[7])
- 「長崎水道一斑」(1892年(明治25年)4月1日出版[8])
- 「原城耶蘇乱記」(1892年(明治25年)4月1日出版[9])
- 「温泉案内記」(1893年(明治26年)5月28日出版[10])
参考文献
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第29号「叙任」1883年8月3日。
- ^ 『官報』第3318号「叙任及辞令」1894年7月21日。
- ^ 長崎年表第一 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 長崎年表第二 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 長崎年表附録 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 長崎市条例及規則私案 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 寛政四年島原地変記 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 長崎水道一斑 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 原城耶蘇乱記 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 温泉案内記 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 長崎畧史 上巻 増補長崎畧史 三 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
関連項目
[編集]