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金剛寺 (倉敷市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金剛寺こんごうじ
金剛寺の鐘楼
金剛寺の鐘楼 地図
所在地 岡山県倉敷市真備町岡田1541
位置 北緯34度39分2秒 東経133度42分20.5秒 / 北緯34.65056度 東経133.705694度 / 34.65056; 133.705694座標: 北緯34度39分2秒 東経133度42分20.5秒 / 北緯34.65056度 東経133.705694度 / 34.65056; 133.705694
宗旨 古義真言宗
宗派 真言宗御室派
本尊 観世音菩薩
弘法大師石像二軀
創建年 1817年
別称 桜大師、桜のお大師様
札所等 吉備四国霊場八十八か所(下道郡霊場八十八か所)27番
法人番号 6260005004056 ウィキデータを編集
金剛寺の位置(岡山県内)
金剛寺
金剛寺
金剛寺 (岡山県)
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金剛寺(こんごうじ)は岡山県倉敷市真備町に所在する真言宗御室派の寺院。別称「桜大師」(さくらだいし)[注 1]または「桜のお大師様」(さくらのおだいしさま)[2]

創建江戸時代[3]本尊観世音菩薩弘法大師石像二軀[2]

後述の事件により2014年に本堂は全焼し、現在は毘沙門堂薬師如来堂鐘楼手水舎のみが残されている[4]

歴史

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1817年文化14年)、下道郡八代村の重吉(小野氏)により、四国八十八箇所霊場になぞらえて八代・辻田・岡田・市場の四か村に八十八箇所の札所が造られた際に、二十七番札所として「高野峰神峰寺」と名付けられた[注 2]のが創設である[5][注 3]

1872年明治5年)に社寺堂宇書上げ明細帳に「桜大師堂」として登録、1883年(明治16年)に梵鐘を鋳造し鐘楼を建て、さらに1900年(明治23年)に高野山の出張所が大師堂内に置かれ、これによって高野山系の大師堂という縁故ができた[5]

昭和の初めに岡田村村長・三宅清三郎が桜大師堂を寺に格上げする念願を欲し[5][注 4]都窪郡中庄村の「阿弥陀庵」[注 5]にいったん桜大師堂を合併する手続きを行い、引き続き1929年(昭和4年)に阿弥陀庵を桜大師堂の位置へ移転する手続きを行うとともに、宝生院の住職を受持住職とした[5]

1931年(昭和6年)、阿弥陀庵を「金剛寺」と改称する[注 6]とともに寺に格上げする許可を受け、「古義真言宗宝生院末金剛寺」となった[5]

1945年(昭和20年)、真言宗が分離して宝生院が真言宗御室派に所属したため、末寺の金剛寺も御室派となった[5]

境内

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1852年嘉永5年)に瓦屋根の本堂が造られた[5]1883年(明治16年)に梵鐘が鋳造され、鐘楼が建てられた[5]。鐘楼は、初めは境内の東に建てられたが、前述の桜大師堂を寺に格上げするために境内の拡張や石段の幅を拡げるなどの整備を行った際に、現在の石段の西へ移転された[5]

毘沙門堂薬師如来堂が建てられた時期は不明である[注 7]

なお、後述の事件により2014年に本堂は全焼した。

  • 毘沙門堂
  • 薬師如来堂
  • 鐘楼
  • 手水舎

交通アクセス

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『悪魔の手毬唄』と桜大師

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桜大師と横溝正史疎開宅
左奥の石段上が桜大師(金剛寺)の鐘楼、右手前の家が横溝正史疎開宅

第二次世界大戦末期から3年余りこの地に疎開していた横溝正史が執筆した、『悪魔の手毬唄』の舞台である鬼首村(おにこうべむら)に登場する寺が「桜のお大師」と呼ばれており、当寺の別称「桜大師」[1]「桜のお大師様」[2][注 8]がその呼称のモデルとなっている[注 9]

横溝はインタビューで、『悪魔の手毬唄』の鬼首村には地形上のモデルが実在しており、疎開先の吉備郡岡田村(現・倉敷市真備町岡田)の「桜」という集落を、作中に登場させていると述べている[10]。また、同インタビューで編集者から示された鬼首村の地図[11]を、「作者公認」として結構ですと述べており[10]、その地図の桜集落の中に「大師」が記されている[11]

殺人放火事件

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2014年1月10日午前7時40分ごろ、岡山県倉敷市真備町岡田の金剛寺で火災があり、本堂と住宅兼用の木造平屋建て1棟が全焼、焼け跡から住職(54歳)の妻(39歳)が遺体で見つかった[12]庫裏で妻の後頭部を建設作業用とみられる柄のついた鉄塊で殴り、火のついていた石油ストーブに向けて灯油をまき、自坊を全焼させたとして、3月4日、住職が殺人罪現住建造物等放火罪の容疑で逮捕された[12]。住職は火災の際にやけどを負って入院していたが、3月4日の退院後の事情聴取で容疑を認める供述をしたとのこと[12]

近隣施設

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脚注

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注釈

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  1. ^ 横溝正史疎開宅で配付されている「横溝正史疎開宅 - 真備ふるさと歴史館 周辺」図に、疎開宅の西側の塀沿いの小道の行き当たり先が「桜大師」と表記されている[1]
  2. ^ 北側に2、3本のの木が茂っていたのを背にした位置にあったため、「かしぐろの大師さん」の愛称で呼ばれて、それが通り名となった[5]
  3. ^ 公称の寺ではなく、石仏を二つ安置した地蔵堂ぐらいのもので、1852年嘉永5年)に初めて瓦屋根の本堂が造られた[5]
  4. ^ 各部落に世話人を置き、寄付金を募集して境内の拡張や石段の幅を拡げるなどの整備を行った[5]
  5. ^ 建物も檀徒もなく、名前だけが明細帳に残っていた[5]
  6. ^ 桜大師堂の西方に廃寺「金剛寺」の遺跡があり宇名に金剛寺という地名があることから、その名前を借用した[5]
  7. ^ 『苔の香 真備町外史』の「桜大師金剛寺の由来」の章に、「慶応三年(1867年)は、大繁盛した天保十二年(1842年)から二十五年目に相当するので、その記念に瓦屋一棟を増築」「明治二十年(1887年)、前堂を新築した」との記述があり[5]、毘沙門堂と薬師如来堂がこれら増築・新築された「瓦屋一棟」「前堂」に該当する可能性がある。
  8. ^ 横溝は『金田一耕助のモノローグ』に「(疎開宅の)すぐ背後に桜のお大師さんというのが、少し小高い丘のうえに建っており」と記載している[7]
  9. ^ 『悪魔の手毬唄』に、部落の名前が「桜」(横溝正史疎開宅の旧住所「岡田村字桜」の「桜」)で「桜のお大師さんちゅうのんがあるもんじゃけに」[8]、「桜のお大師さんというのはその部落のいちばん奥まったところにあり、二十段ばかりの石段のうえに、ちんまりとしたお堂と堂守りの住居らしい家の屋根が、二、三本のの大木の葉がくれに、ひっそりとすわっているのがすぐ眼の下に望見される」と記述されている[9]

出典

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  1. ^ a b 「横溝正史疎開宅 - 真備ふるさと歴史館 周辺」図。
  2. ^ a b c 真備町史編纂委員会 編『真備町史』岡山県吉備郡真備町、1979年5月、530-531頁。「下道郡霊場八十八か所 十二、金剛寺」 
  3. ^ 町内の寺院 岡田地区”. わが町真備町. 2023年4月19日閲覧。
  4. ^ 岡山県倉敷市の『金剛寺』 『金剛寺 (岡山県倉敷市真備町岡田1541番地)』の航空写真”. 「お寺メイト」【仏教寺院探索サイト】. 2023年4月19日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 粕谷米夫『苔の香 真備町外史』六甲出版、1983年7月、77-80頁。「桜大師金剛寺の由来」 
  6. ^ a b c 金剛寺”. 日本の神社・寺院の検索サイト 八百万の神. 2023年4月19日閲覧。
  7. ^ 横溝正史『金田一耕助のモノローグ』角川書店角川文庫〉、1993年11月10日、25頁。 
  8. ^ 角川文庫『悪魔の手毬唄』第二部 二番目のすずめのいうことにゃ「婿あらそい」。
  9. ^ 角川文庫『悪魔の手毬唄』第二部 二番目のすずめのいうことにゃ「活弁青柳史郎」。
  10. ^ a b 角川書店 編『横溝正史に捧ぐ新世紀からの手紙』角川書店、2012年5月25日、278頁。「金田一耕助はなお消えず 横溝正史(初出:1979年9月到知出版刊行『私の書斎III』)」 
  11. ^ a b 角川書店 編『横溝正史に捧ぐ新世紀からの手紙』角川書店、2012年5月25日、280頁。「金田一耕助はなお消えず 横溝正史(初出:1979年9月到知出版刊行『私の書斎III』)」 
  12. ^ a b c 岡山県倉敷市真備町金剛寺殺人放火事件”. ASKAの事件簿 (2014年3月5日). 2023年5月1日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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