金尊楷
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金 尊楷(きん そんかい、嘉靖45年(1566年) - 承応3年8月3日(1654年9月13日)[1])は、上野焼および高田焼の基礎を築いたとされる朝鮮陶工の1人である。
文禄の役の際、朝鮮の泗川十時地方(現在の泗川市)から加藤清正に従って日本に来る。唐津に落ち着いた後、本国に帰って高麗青磁の技法を会得して再び来日。
1602年、茶道に造詣が深く利休七哲の1人としても名高い豊前小倉藩主細川忠興(三斎)に招かれ、豊前国田川郡上野に窯を開き、名を上野喜蔵高国(あがのきぞうたかくに)と改めた。以後30年余の間、この地で忠興好みの格調高い作品作りに携わったが、忠興・忠利父子の肥後転封に従い、長男の忠兵衛・三男の藤四郎とともに肥後国八代郡高田(こうだ)に移って高田焼を創始した。上野焼は、二男の十時孫左衛門と娘婿の渡久左衛門が継承した。
尊楷は、慕っていた忠興が亡くなると即座に仏門に入って宗清(そうせい)と名乗り、承応3年(1654年)、89歳で死去した。