金永善
表示
(金山永善から転送)
金 永善(キム・ヨンソン、朝鮮語: 김영선、1918年4月25日 - 1987年2月17日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の官僚、政治家。本貫は光山金氏[1]。日本名は金山 永善(かなやま ながよし)。
生涯
[編集]忠清南道保寧郡にて誕生。裡里農林学校を経て京城帝国大学法文学部を卒業[2]。高等文官試験行政科に合格し、忠清北道道属・郡属・道警部、珍島郡守を務めた。第二次世界大戦後は財務部長官(1960年-1961年)、国土統一院長官(1970年-1973年)、駐日大使(1974年-1978年)を歴任。また保寧郡から国会議員に選出され、通算3期を務めた(1950年-1958年、1960年-1963年)。
1960年の財務部長官時代に張俊河と知り合い、国土建設事業への参画を強く依頼した。張俊河は当初は固辞したが、金永善の繰り返しの要請と劉彰順や太完善らの働きかけを受けて、最終的には承諾した[3]。1960年10月から経済計画の草案作成を開始し、1961年4月に完成させた[4]。
張勉政権のナンバー2という評価を受けたが[5]、1961年の5・16軍事クーデターにて失脚した。
金永善は興韓経済研究所を設立したほか、大韓火災保険会長、大韓商工会議所専門委員、精神文化研究院理事長、国土統一院顧問を務めた。また、京郷新聞論説委員を務めたほか[2]、雑誌『思想界』に参加し、同人活動を行った[3]。
参考資料
[編集]注釈
[編集]- ^ “(8)광산 김씨(光山金氏)-837,008명” (朝鮮語). 서울이코노미뉴스 (2014年7月6日). 2022年8月16日閲覧。
- ^ a b “김영선(金永善)”. 韓国民族文化大百科事典. 2023年8月15日閲覧。
- ^ a b 李容遠『第2共和国と張勉』25ページ、汎友社、2007年。
- ^ 徐重錫『韓国現代史60年』82ページ、歴史批評社、2008年。
- ^ 풍류는 없고, 돈만 남았다 - 韓国アイドットコム スポーツ韓国、2009-06-01
公職 | ||
---|---|---|
先代 申泰煥 |
大韓民国国土統一院長官 第2代:1970 - 1973 |
次代 金溶植 |
先代 尹皞炳 |
大韓民国財務部長官 第11代:1960 - 1961 |
次代 白善鎭 |
外交職 | ||
先代 李澔 |
駐日大韓民国大使 第5代:1974 - 1978 |
次代 金正濂 |