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鈴木勝 (歯学者)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
すずき まさる

鈴木 勝
生誕 1903年明治36年)
福島県河沼郡柳津村(現:柳津町)
死没 1987年昭和62年)8月、84歳
記念碑 銅像千代田区 日本大学歯科病院[1]
国籍 日本の旗 日本
出身校 日大専門部歯科
東京医学歯学専門学校医学科
職業 日本大学総長
日本歯科医学会会長
任期 日本大学総長1969年9月 - 1984年8月
後任者 日本大学総長 - 高梨公之
日本歯科医学会会長 - 杉山不二
栄誉 勲一等瑞宝章[2]
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鈴木 勝(すずき まさる、1903年明治36年〉 - 1987年昭和62年〉)は、日本の歯学者医学博士[3]。第六代日本大学総長、第四代、第五代日本歯科医学会会長。

概要

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会津路の峰、博士山の登山口[4]である福島県河沼郡柳津町大成沢に生まれる[2]

1921年大正11年)に旧制福島県立会津中学校(現・福島県立会津高等学校)を卒業し、日本大学専門部歯科へ進む。在学中に馬術部の創設に関わり、選手として京都若草大会(学生の部)で3位となる[5]。卒業後、専門部歯科助教授となり、放射線学教室を担当。教授に1943年(昭和18年)4月就任したが、より高度の知識と医学学位の取得を求め、1948年(昭和23年)には東京医学歯学専門学校(現・東京医科歯科大学医学科を卒業した[注 1]

その後、日大に戻り、歯学部教授兼学監、歯学部長、理事、総長を歴任。

1960年代、日大紛争時には理事として学生側との交渉を重ね、紛争が収束しつつあった1969年(昭和44年)には総長に選任された。 1984年(昭和59年)までの総長在任中に理事長を兼任し(1974年 - 1981年)、日大の制度・機構などの改革を推進する一方、学生数の適正化・教員の充実に努めた。総長就任は、5期15年の長期に亘った。1984年(昭和59年)日本大学名誉総長。

1971年(昭和46年)には日本大学松戸歯科大学(現・日本大学松戸歯学部)、同付属病院を開学、開院した[6]

松戸歯学部には鈴木の寄付金を基に鈴木奨学金が設けられ[7]、資料室には鈴木が収集した歯学関係の資料も収められている[8]。鈴木が理念とした「医学的歯学」は松戸歯学部の教育研究理念として受け継がれている。

日大以外の役職

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など

なお鈴木は会津会会長[10]として会津地方出身者の中心的存在でもあった。後継会長は川島廣守である。

栄典

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関連書籍

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  • 河邉清治『河邊清治対談集 私の歯学概論』 医歯薬出版
  • 鈴木勝監修『歯学史資料図鑑 目で見る歯学史』 医歯薬出版

脚注

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注釈

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  1. ^ 日本大学医学部の新学制による医学部医学科への移行認可は1952年(昭和27年)、日本大学の歯科学位大学院開設は1956年(昭和31年)4月であり、1945年当時は無かった。歯科月報は昭和 39年(1964) 1月,日大歯学”. 2020年1月19日閲覧。

出典

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  1. ^ 銅像 鈴木勝”. 2020年1月19日閲覧。
  2. ^ a b c d 柳津町 柳津今昔” (PDF). 2012年7月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月26日閲覧。
  3. ^ 国立国会図書館. “博士論文『肺結核症術後の肺容量に関する研究』”. 2023年4月6日閲覧。
  4. ^ 柳津町 会津路の神々の峰博士山” (PDF). 2012年7月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月26日閲覧。
  5. ^ 日本大学馬術部”. 2012年7月26日閲覧。
  6. ^ 沿革/日本大学松戸歯学部”. 2012年7月26日閲覧。
  7. ^ 奨学金詳細 /日本大学”. 2012年7月26日閲覧。
  8. ^ 松戸歯学部歯学史資料室”. 2012年7月26日閲覧。
  9. ^ ICD 国際歯科学士会”. 2012年7月26日閲覧。
  10. ^ 『会津会会報 第94号』「追悼 鈴木前会長」
  11. ^ 県外在住功労者知事表彰受賞者名簿”. 2012年7月26日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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先代
永澤滋
学校法人日本大学理事長
1974年 - 1981年
次代
柴田勝治