鈴木義兼
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鈴木 義兼(すずき よしかね、? - 天正17年5月2日〈1589年6月14日〉?)は、安土桃山時代の人物。仮名は孫市郎。雑賀衆の鈴木氏の一族で鈴木重秀の兄弟との推測もあるが、異説もある。
概要
[編集]義兼に関する同時代史料はほぼ皆無で[1]、平井の蓮乗寺や西本願寺岡崎御坊にある墓碑からその名が知られる[2]。蓮乗寺の墓碑には「雑賀住平井孫市郎藤原義兼」とあり、岡崎御坊の墓碑には「平井住鈴木孫市郎義兼」とある[2]。
義兼が住んだという平井は雑賀衆の鈴木孫一重秀が本拠とした場所であり[3]、鈴木という名字からも義兼はその一族であると推測される[4]。一族内の立場について、作家の神坂次郎は重秀の長兄、鈴木眞哉も重秀の兄弟であると推定[5]。鈴木は義兼について、募兵や兵站、各方面との調整などに当たって重秀を支え、天正10年(1582年)6月に重秀が雑賀から逃れた後は、別の名から孫市郎に名を改めて鈴木一族を統轄したものと推測している[6]。
一方、武内善信は、墓碑にある義兼の本姓が「藤原」で鈴木孫一家が称した「穂積」でないことや、孫一家の通字の「重」でなく「義」の字を諱に使用していることから鈴木孫一家とは同族ではないとしている[7]。
蓮乗寺の墓碑には「天保三年(1832年)壬辰五月上旬改」「当寺九世現住正因再建之」とあり、この時再建されたとされるが、「天正十七年(1589年)己丑五月二日」という日付も刻まれている[8]。これについては墓碑が初めて建立された時、または義兼が死去した日であると考えられる[8]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 鈴木真哉『紀州雑賀衆 鈴木一族』新人物往来社、1984年。
- 武内善信「秀吉の朝鮮侵略における降倭部将沙也可と「雑賀孫市」―鈴木孫一一族のその後―」『雑賀一向一揆と紀伊真宗』法藏館、2018年。ISBN 978-4-8318-6250-1。初出:「秀吉の朝鮮侵略における降倭部将沙也可と「雑賀孫市」をめぐって」『和歌山地方史研究』第72号、2017年。