コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

鈴木重康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鈴木重康

鈴木 重康(すずき しげやす、1886年(明治19年)9月1日 - 1957年(昭和32年)6月1日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

[編集]

加賀藩士・陸軍大尉、鈴木知康の二男として生れる。名古屋陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月、陸軍士官学校(17期)を卒業、翌月、歩兵少尉に任官し歩兵第35連隊付となる。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。

参謀本部付勤務、参謀本部員、支那駐在(満州シベリアロシア軍従軍)、参謀本部付、第12師団参謀、陸大教官、参謀本部員(作戦課)、歩兵第34連隊付、ポーランド公使館付武官、兼ラトビア公使館付武官、参謀本部課長、近衛歩兵第1連隊長、陸大教官などを歴任し、1933年(昭和8年)3月、陸軍少将に進級。

陸大教官、参謀本部第4部長、同第1部長などを歴任し、関東軍隷下の独立混成第11旅団長に就任。盧溝橋事件後に動員され支那駐屯軍戦闘序列に入り諸作戦に従軍。1936年(昭和11年)12月、陸軍中将となった。参謀本部付、陸軍習志野学校長を歴任し、1938年(昭和13年)12月、予備役に編入された。東京自動車工業社長、自動車部品製造会長を経て[1]1941年(昭和16年)12月、自動車統制会長に就任した。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 人事興信所 1943, ス61頁.
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」138頁。

参考文献

[編集]