鉢伏山 (福井県)
鉢伏山 | |
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敦賀市天筒山より見た鉢伏山 | |
標高 | 761.8 m |
所在地 |
日本 福井県敦賀市・南条郡南越前町 |
位置 | 北緯35度43分16.7秒 東経136度08分02.2秒 / 北緯35.721306度 東経136.133944度座標: 北緯35度43分16.7秒 東経136度08分02.2秒 / 北緯35.721306度 東経136.133944度 |
鉢伏山の位置 | |
プロジェクト 山 |
鉢伏山(はちぶせやま)は、福井県敦賀市と南条郡南越前町との境にある標高761.8メートルの山。山頂には二等三角点(基準点名:鉢伏山)が設置されている。
概要
[編集]鉢伏山は敦賀市街から北東に位置し、山頂からは西に敦賀湾を遠望できる。鉢を伏せたような丸みのある山容から名付けられたという[1]。東麓は今庄365スキー場として利用されている。北に北陸自動車道敦賀トンネル、南に北陸本線北陸トンネルと主要幹線が貫く。山頂の南東には木ノ芽峠とその新道となる2004年に完成した国道476号木ノ芽峠トンネルが敦賀市と南越前町を結ぶ。
登山
[編集]福井県敦賀市側の新保から木ノ芽峠を経由するコースが一般的である。木ノ芽峠トンネルの手前に駐車スペースが設けられている[2]。沢を左手に見ながら、40分ほど登ると茅葺きの建物のある木ノ芽峠に着く[3]。峠の左側が鉢伏山に至る南東尾根であり、途中、今庄365スキー場のゲレンデを通過しながら、20分で山頂である[3]。山頂西側は伐採されており眺望が開けている[2]。敦賀湾と敦賀半島の蠑螺が岳・西方ヶ岳が目の前にあり、敦賀市街地の向こうの野坂岳、また若狭湾方面には常神半島や久須夜ヶ岳も遠望できる[3]。
なお、南越前町の今庄365スキー場からは舗装された林道が整備されており、木ノ芽峠近くまで上がることもできる[2]。ただし急勾配かつ離合困難な箇所もあり、運転には注意が必要である。
旧跡など
[編集]城塞群
[編集]古代から交通の要衝であった木ノ芽峠を抑えるため、鉢伏山には早くから山城が築かれてきた。山頂から南東尾根に沿って、鉢伏城、観音丸城[4]、木ノ芽峠を挟んで、木ノ芽峠城、西光寺丸城があり、これらの城は木ノ芽峠城塞(城砦)群と呼ばれている[5]。平安時代末期には源義仲(木曽義仲)が倶利伽羅峠の戦いで敗走する平家の退路を断つために利用した[1]というが、現在見られる城趾は戦国時代のものであり[5]、永禄12年(1569年)に朝倉義景が織田信長の侵攻に備えて築き、天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いでは、印牧氏の印牧能信が城主を務めた。朝倉氏滅亡の後に起こった越前一向一揆でも、一揆衆が信長との戦いで使用している[5][6]。
- 敦賀市新保から木ノ芽峠までの登山道途中には、大岩に刻まれた地蔵があり、「弘法の爪描き地蔵」と言われている。弘法大師により彫られたという伝承があり、若越八十八ヵ所第12番札所となっている[7]。
- 木ノ芽峠から今庄側に少し下ったところに地蔵堂があり、若越八十八ヵ所第13番札所の言奈地蔵である[7]。言奈地蔵のいわれは、その昔、強盗殺人を働いた男が石地蔵に犯行を見られ、「地蔵言うな」と口止めをしたところ、「地蔵言わぬが、おのれ言うな」と返された。年月が過ぎ、その男は出会った旅人に昔の犯罪を打ち明けたところ、その旅人の仇が自分自身と分かり、因果応報と観念して、討ち取られたとのことである[8]。
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 森田和夫, 立花恵秀 『お地蔵さま 若越八十八ヶ所を尋ねて』 海光堂書店, 1981年1月1日発行
- 上杉喜寿 『越前若狭 山々のルーツ』 安田書店, 1987年6月1日再版発行
- 小浜山の会ガイドブック編集委員会 『若狭の山々』 小浜山の会, 2001年3月25日初版発行
- 編集者 田中完一 『敦賀の山々 ハイキングコースガイドブック』 敦賀山友クラブ, 2008年10月25日発行