鍋島俊策
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鍋島 俊策 | |
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生誕 |
1892年9月10日 日本 熊本県 |
死没 | 1948年4月28日(55歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
最終階級 | 海軍少将 |
鍋島 俊策(なべしま しゅんさく、1892年9月10日 - 1948年4月28日)は、日本の海軍軍人。海軍少将。正五位勲二等瑞宝章。
経歴
[編集]熊本県下益城郡小川町(現・熊本県宇城市小川町)生まれ。小川小学校、八代中学校卒業。海軍兵学校および陸軍士官学校(第26期)を受験し、双方に合格している。1911年(明治44年)海軍兵学校に入学する。
1914年(大正3年)海軍兵学校を卒業(42期)し、海軍少尉候補生となり阿蘇乗組。1918年(大正7年)水雷学校普通科を卒業し、同年12月に砲術学校学生教程を卒業する。1920年(大正9年)海軍大尉に任ぜられ、翌年の1921年(大正10年)には水雷学校高等科を卒業する。1925年(大正14年)に海軍大学校甲種25期入学。1926年(大正15年)、海軍少佐に昇進する。1927年(昭和2年)には特別大演習審判官に。1933年(昭和8年)より軍令部々員兼海軍大学校教官、海軍技術会議議員などを務める。
1937年(昭和12年)に海軍大佐に進級。1940年(昭和15年)「鹿島」の艦長に就任し、以後「北上」「鬼怒」「摩耶」の艦長を歴任する。1942年(昭和17年)海軍少将に昇進し、第四艦隊参謀長となる。1944年(昭和19年)海軍機雷学校長(後に海軍対潜学校と改む)。1945年(昭和20年)6月に四国地方海軍部長、及び四国海軍軍需監督部長を兼務し、同年10月予備役となる。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。
脚注
[編集]- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
参考文献
[編集]- 小川町史編纂委員会 編纂『小川町史』小川町役場(熊本県)、1979、1052頁
- 太平洋戦争研究会編著『日本海軍将官総覧』PHP研究所、2010、331頁