鎌田政冨
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鎌田 政冨(かまた まさとみ、永禄10年(1567年)11月 - 慶長3年11月7日(1598年12月5日))は安土桃山時代の薩摩国島津氏の家臣。通称は甚五郎、蔵人頭。父は鎌田政近。妻は有川貞真の娘。子は鎌田政統、娘(佐多忠充室)。
鎌田政近の次男として誕生、指宿の地頭を務めた。慶長2年(1597年)に慶長の役に参加し朝鮮国へ渡海する。翌慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死去に伴い、日本軍は11月15日を以って帰陣すると定めていたが、そんな折に順天に残る小西行長らが敵船により海上を封鎖される。島津義弘は小西らの安否を確かめるべく、泗川新城から政冨と敷根頼元を使いに出した。政冨らは敵番船の中を掻い潜り無事に順天へ入ったが、その帰路で逆風に遭い船が大破、敷根頼元共々溺死した。享年32。法名は「月船宗皎居士」。
参考文献
[編集]- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)