鏡山城 (伯耆国)
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鏡山城 (鳥取県) | |
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別名 | 黒坂城 |
城郭構造 | 山城、居館 |
天守構造 | なし |
築城主 | 関一政 |
築城年 | 1609年(慶長14年) |
主な城主 | 関一政 |
廃城年 | 1618年(元和4年) |
遺構 | 曲輪、土塁、石垣、居館 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯35度12分23.6秒 東経133度22分56.8秒 / 北緯35.206556度 東経133.382444度座標: 北緯35度12分23.6秒 東経133度22分56.8秒 / 北緯35.206556度 東経133.382444度 |
地図 |
鏡山城(かがみやまじょう)、または黒坂城(くろさかじょう)は、鳥取県日野郡日野町黒坂にあった江戸時代初期の日本の城。旧日野産業高校校舎とその裏山が城跡である。
歴史
[編集]1609年(慶長14年)、伯耆国米子城主・中村一忠が無嗣除封された後、伯耆国は小大名によって分割支配され、日野郡の地は伊勢国亀山より関一政が5万石で入封することとなった。関一政は黒坂の鏡山に新城を建設し城下町も整えた。
しかし1618年(元和4年)、家中不統一(世継ぎ争い)を理由に改易されてしまい[2]、鏡山城も破城された。築城からわずか9年という短い存続期間だった。
関氏の後にこの地を支配した池田氏は鏡山城居館跡に陣屋を置き[3]、重臣・福田氏を置いて黒坂を支配させた。関氏の築いた南北3筋・東西5筋の城下町の街並みは今に残っており、武家屋敷も見られる。
遺構
[編集]鏡山の丘陵に削平地が残る。基本的には土塁を主として構成された城だったらしい。
山上には南北に細長い主郭があり、南端と北端に櫓台とおぼしき遺構も見られる。櫓台には破城を受けているものの近世初期の石垣が残る。山麓には居館跡が残っている。
脚注
[編集]- ^ 日野町教育委員会 2012「指定文化財一覧」『わたしたちのまち 日野町【歴史編】』p.31 日野町公式HP
- ^ 日野町教育委員会 2012 p.31
- ^ 「鏡山城址」日野町公式HP
参考文献
[編集]- 日野町教育委員会 2012 「黒坂のまちと鏡山城」『わたしたちのまち 日野町【歴史編】』p.8