長井貞秀
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時代 | 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 弘安3年(1280年)?[注釈 1] |
死没 | 徳治3年(1308年)3月12日?[注釈 2] |
官位 | 従六位蔵人[4]、中務大輔[4]、兵庫頭[注釈 1][4] |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 北条貞時 |
氏族 | 長井氏 |
父母 | 父:長井宗秀、母:北条実時の娘 |
兄弟 | 貞秀、時千[4]、広秀[5] |
妻 | 不詳 |
子 | 貞懐[4]、広秀[4][6]、高冬(挙冬)?[4][注釈 2]、師元[4]、頼元[4]、氏頼[4] |
長井 貞秀(ながい さだひで)は、鎌倉時代後期の政治家・武将。
略歴
[編集]父は鎌倉幕府評定衆の長井宗秀。母は北条実時(金沢実時)の娘。
北条氏得宗家当主(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時より偏諱を受け[注釈 3]、貞秀と名乗る。
永仁2年(1294年)3月5日に従六位蔵人となる[10]。その後、中務少輔、兵庫頭[注釈 1]と昇進した。嘉元4年(1306年)4月25日、将軍久明親王の代官として鶴岡八幡宮、伊豆・筥根二所権現に参詣する[11]。また縁戚(母方の従兄弟)の北条貞顕(金沢貞顕)と交流があり[注釈 4]、文化活動に貢献した。延慶元年(1308年)に死去[注釈 2]。年齢は30歳前後だったと推定されている[注釈 1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c d 紺戸淳は『鎌倉年代記』の徳治元年(1306年)条に「今年四月廿五日将軍二所御参詣。御代官長井兵庫頭貞秀」と見られることから、この時までには兵庫頭(従五位)になっており、年齢的にも二十歳を越えていたと考えられるため、遅くとも弘安10年(1287年)には生まれていたとする見解を出された[1]が、その後、長井氏嫡流で泰秀と宗秀が共に18歳で叙爵していることから、「永仁2年(1294年)14歳(ママ、15か)にして六位・蔵人・左衛門少尉・検非違使となり、永仁6年(ママ、5年か)に18歳で叙爵し、5年を経た乾元元年(1302年)に23歳で従五位上に昇叙された」[2]とする見解が出されている。これに基づくと、1280年の生まれとなり、亡くなった当時約30歳とする永井晋の見解に一致する[2]。
- ^ a b c 没年については長らく延慶2年(1309年)とされてきたが、永井晋が『諷誦願文集』と『徳治三年春日神木上洛日記』に基づいて1年繰り上げる見解を提示されている[3]。尚、系図類で子の一人とされる挙冬が史料で見る限り正和3年(1314年)生まれである(『常楽記』貞和三年(1347年)三月二十四日条で「長井右馬助擧冬他界。三十四」という記事が見られる[1])ので、挙冬とは実際の父子関係になかった可能性が高い。
- ^ 『鎌倉年代記』の徳治元年(1306年)条に「今年四月廿五日将軍二所御参詣。御代官長井兵庫頭貞秀」と見られることから、この時二十歳を越えていて元服は既に済ませている筈であり、紺戸論文ではその時期を1301年以前と推定してその時の得宗家当主であった貞時と烏帽子親子関係を結んだとしている[7]。長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり[8]、北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったとみられる[9](→北条氏#北条氏による一字付与について)。
- ^ 金沢文庫(『金沢文庫文書』)には、徳治2年(1307年)の「長井貞秀書状」等、貞秀が貞顕や称名寺長老の明忍房剱阿と密接な交流をもっていたことを示す紙背文書群が大量に残されている[3]。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年。
- 永井晋「長井貞秀の研究」『金沢文庫研究』第315号、2005年。/所収:永井晋『金沢北条氏の研究』八木書店、2006年。
- 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』2号、1979年。
- 前田治幸 著「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」、阿部猛 編『中世政治史の研究』日本史史料研究会、2010年。/所収:田中大喜 編『下野足利氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉、2013年。
- 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年。ISBN 978-4-7842-1620-8。
- 東京大学史料編纂所 データベース『史料総覧』