長山直張
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 元禄4年(1691年) |
死没 | 享保17年5月1日(1732年5月24日) |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 長山氏 |
父母 | 父:長山直利、母:永井佐治兵衛の娘、養父:長山直仍 |
兄弟 | 直恒、直張、直興、女子(森源六郎長囿の妻)、女子 |
妻 | 岩出彦兵衛の娘 |
子 | 直幡、直明、女子(諏訪部文九郎の妻)、女子(有田忠左衛門の妻)、振之助 |
長山 直張(ながやま なおはる、1691年 - 1732年5月24日(享保17年5月1日))は、江戸時代前期から中期にかけての日本の武士、旗本。通称は浅之丞、弥三郎。
略歴
[編集]元禄4年(1691年)、江戸に生まれる。父は旗本・長山直利、母は永井佐治兵衛の娘[1]。
伯父の長山直仍に実子がいなかったため、同15年(1702年)に養子となる[1]。
宝永2年(1705年)、部屋住のうちに御目見を済ませた[1]。
同年7月12日に養父が病死したため、同年10月14日に跡目を相続したが、実父・直利の嫡子が病死し、家を相続する男子がいなかったので、宝永6年(1709年)3月27日に直利の嫡子となる[1]。正徳4年(1714年)11月29日、直利の跡目相続について阿部豊後守より認められ、小普請組の松前伊豆守組となった[1]。
享保4年(1719年)10月18日、御書院番の板倉下野守組への御番入りを命じられ、同8年1月28日、仙石因幡守組となった[1]。
同17年5月1日(1732年5月24日)病死。享年44。法名は静照院寂応全龍[1]。