長谷川宣雄
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享保4年(1719年) |
死没 | 安永2年6月22日(1773年8月10日) |
別名 | 平蔵(通称) |
戒名 | 泰雲院夏山日晴 |
墓所 | 京都府京都市上京区の華光寺 |
官位 | 従五位下、備中守 |
幕府 | 江戸幕府 西城御書院番→小十人頭→御先手弓頭→火付盗賊改加役→京都西町奉行 |
氏族 | 長谷川氏 |
父母 |
父:長谷川宣有、母:三原氏 養父:長谷川宣尹 |
妻 | 長谷川宣尹の養女(長谷川宣安の娘) |
子 |
宣以、娘(大久保忠居の妻) 養女(三木忠任の娘、水原保明の妻) 養女(朝倉景増の娘、三宅徳屋の妻) |
長谷川 宣雄(はせがわ のぶお)は、江戸時代中期の旗本。火付盗賊改方頭として知られる長谷川宣以の父で、自身も同職を務めた。通称は息子と同じ平蔵(へいぞう)。同じ通称名を名乗っているので混同されやすいが、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公として登場する「鬼平」こと長谷川平蔵は宣雄ではなく、息子の宣以の方である。
従兄・長谷川宣尹の末期養子となり、延享5年(1748年)1月10日に宣尹が死去したため、同年4月3日に遺跡を継いだ。改元後の寛延元年(1748年)閏10月9日に西城御書院番、宝暦8年(1758年)9月15日に小十人頭となった。同年12月18日、布衣の着用を許された。明和2年(1765年)4月11日に御先手弓頭、明和8年(1771年)10月17日に火付盗賊改加役に就任した。
明和9年(1772年)2月29日に発生した明和の大火では、犯人の真秀を捕らえ、火刑に処した。この功績が評価され、安永元年(1772年)10月15日に京都西町奉行に転任[1]、同年11月15日に従五位下・備中守に叙任される。安永2年(1773年)6月22日、奉行在任中に京都で死去した。享年55。
脚注
[編集]- ^ 『江戸刑事人名事典』206頁
参考文献
[編集]- 釣洋一『江戸刑事人名事典』(新人物往来社、2006年)