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長谷川宣雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
長谷川 宣雄
時代 江戸時代
生誕 享保4年(1719年
死没 安永2年6月22日1773年8月10日
別名 平蔵(通称
戒名 泰雲院夏山日晴
墓所 京都府京都市上京区華光寺
官位 従五位下、備中守
幕府 江戸幕府 西城御書院番小十人頭御先手弓頭火付盗賊改加役京都西町奉行
氏族 長谷川氏
父母 父:長谷川宣有、母:三原氏
養父:長谷川宣尹
長谷川宣尹の養女(長谷川宣安の娘)
宣以、娘(大久保忠居の妻)
養女三木忠任の娘、水原保明の妻)
養女朝倉景増の娘、三宅徳屋の妻)
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長谷川 宣雄(はせがわ のぶお)は、江戸時代中期の旗本火付盗賊改方頭として知られる長谷川宣以の父で、自身も同職を務めた。通称は息子と同じ平蔵(へいぞう)。同じ通称名を名乗っているので混同されやすいが、池波正太郎小説鬼平犯科帳』の主人公として登場する「鬼平」こと長谷川平蔵は宣雄ではなく、息子の宣以の方である。

従兄・長谷川宣尹の末期養子となり、延享5年(1748年)1月10日に宣尹が死去したため、同年4月3日に遺跡を継いだ。改元後の寛延元年(1748年)閏10月9日に西城御書院番宝暦8年(1758年)9月15日に小十人頭となった。同年12月18日、布衣の着用を許された。明和2年(1765年)4月11日に御先手弓頭、明和8年(1771年)10月17日に火付盗賊改加役に就任した。

明和9年(1772年)2月29日に発生した明和の大火では、犯人の真秀を捕らえ、火刑に処した。この功績が評価され、安永元年(1772年)10月15日に京都西町奉行に転任[1]、同年11月15日に従五位下・備中守に叙任される。安永2年(1773年)6月22日、奉行在任中に京都で死去した。享年55。

脚注

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  1. ^ 『江戸刑事人名事典』206頁

参考文献

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  • 釣洋一『江戸刑事人名事典』(新人物往来社、2006年)