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長谷川映太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長谷川 映太郎
はせがわ えいたろう
誕生 1911年3月8日
死没 (1995-01-23) 1995年1月23日(83歳没)
職業 実業家編集者
言語 日本の旗 日本語
最終学歴 同志社
代表作ドレスメーキング
マダム
デビュー作 『牧野植物混混録 牧野富太郎個人雑誌 1号』
配偶者 長谷川史子
子供 長谷川正承
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長谷川 映太郎(はせがわ えいたろう、1911年3月8日 - 1995年1月23日)は、日本の実業家編集者である[1][2][3]鎌倉書房の創業社長であり、同社会長、ドレスメーカー女学院理事長、日本雑誌協会常務理事、日本出版クラブ評議員、鎌倉ばら会名誉幹事を歴任した[1][3][4]。洋裁雑誌『ドレスメーキング』、婦人雑誌マダム』の編集・発行人として知られる[5][6][7]

人物・来歴

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1911年(明治44年)3月8日に生まれる[1][3]同志社に学ぶ[8]

1941年(昭和16年)9月15日、現在の東京都千代田区神田多町に「株式会社鎌倉書房」を創立する[1][9]第二次世界大戦終結後の1948年(昭和23年)7月31日、杉野芳子の寄付により発足した「財団法人杉野学園」(現在の学校法人杉野学園)の理事に就任する[10]。1949年(昭和24年)5月1日、鎌倉書房から雑誌『ドレスメーキング』を創刊、発行人となる[5]

1953年(昭和28年)11月、鎌倉書房本社を新宿区市谷左内町に移転した。同年、自宅のある鎌倉市稲村ガ崎で、発起人として「鎌倉パラの会」(現在の「鎌倉ばら会」)設立に参加、10人の世話人に名を連ねる[4]。1961年(昭和36年)11月、第17回秋季バラ展示会にあたって、「鎌倉パラの会」独自のティー・スプーンをデザインし、現在に至るまで同会で使用している[4]。1964年(昭和39年)6月、最後発の婦人雑誌として『マダム』を創刊、発行人となる[6][7]

1993年(平成5年)5月、同月発売した通巻565号をもって雑誌『ドレスメーキング』を休刊する[5]

1995年(平成7年)1月23日、死去した[1][3]。満83歳没。同時期、鎌倉書房は破産・解散、同社の出版物である『マダム』等の雑誌もすべて休刊している。

ビブリオグラフィ

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国立国会図書館蔵書を中心とした単著・編著の一覧である[2]

編著
  • 『牧野植物混混録 牧野富太郎個人雑誌 1号』、牧野富太郎鎌倉書房、1946年5月
  • 『牧野植物混混録 牧野富太郎個人雑誌 2号』、牧野富太郎、鎌倉書房、1947年1月
  • 『牧野植物混混録 牧野富太郎個人雑誌 3号』、牧野富太郎、鎌倉書房、1947年3月
  • 『牧野植物混混録 牧野富太郎個人雑誌 4号』、牧野富太郎、鎌倉書房、1947年5月
  • 『牧野植物混混録 牧野富太郎個人雑誌 5号』、牧野富太郎、鎌倉書房、1947年9月
  • 『牧野植物混混録 牧野富太郎個人雑誌 6号』、牧野富太郎、鎌倉書房、1948年2月
  • 『牧野植物混混録 牧野富太郎個人雑誌 7号』、牧野富太郎、鎌倉書房、1948年6月
  • 『牧野植物混混録 牧野富太郎個人雑誌 8号』、牧野富太郎、鎌倉書房、1948年9月
  • 『牧野植物混混録 牧野富太郎個人雑誌 9号』、牧野富太郎、鎌倉書房、1948年12月
  • 『牧野植物混混録 牧野富太郎個人雑誌 10号』、牧野富太郎、鎌倉書房、1949年3月
著書
  • 『かわいい子ども服 '71-72』、鎌倉書房、1971年

脚注

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  1. ^ a b c d e 合祀者名簿日本出版クラブ、2012年6月27日閲覧。
  2. ^ a b 長谷川映太郎国立国会図書館、2012年6月27日閲覧。
  3. ^ a b c d 長谷川映太郎日外アソシエーツ、2012年6月27日閲覧。
  4. ^ a b c 鎌倉バラ会年代記鎌倉ばら会、2012年6月27日閲覧。
  5. ^ a b c ドレスメーキング、国立国会図書館、2012年6月27日閲覧。
  6. ^ a b マダム、国立国会図書館、2012年6月27日閲覧。
  7. ^ a b マダム国立情報学研究所、2012年6月27日閲覧。
  8. ^ 同志社時報第24号 1967.2学校法人同志社、2012年6月27日閲覧。
  9. ^ 岩波、p.221 .
  10. ^ 学校法人杉野学園寄付行為学校法人杉野学園、2012年6月27日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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