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長谷川治郎兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長谷川 治郎兵衛(はせがわ じろべえ)は、三重県松阪市出身の伊勢商人長谷川 次郎兵衛と表記されることもある。

沿革

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歌川広重作『東都大伝馬町繁栄之図』。両側に「はせ川」の染め抜かれた暖簾が描かれている。

長谷川本家は「丹波屋」という屋号を用いた。寛永12年(1635年)、一族の者である布屋市右衛門が日本橋大伝馬町で木綿売買を始め、慶安2年(1649年)には二代目丹波屋次郎兵衛喜安が江戸に出て、市右衛門の商売を助けた。本家三代目の政幸(宗印居士)も同様に布屋で研鑽を積み、30歳で独立して木綿仲買の店を開いた。貞享3年(1686年)には大伝馬町の木綿問屋70軒が木綿問屋に改められた。宗印は後に店を支配人に任せ、郷里松阪へ戻った。この頃に長谷川家の資産は一万七千両に達した。元禄15年(1702年)には長谷川源右衛門が勢州・尾州木綿を扱う新店を構え、享保10年(1725年)には分家である亀屋武右衛門が木綿店を開業、元文3年には分家戎屋六郎次が店を開き、資産は四万九千両に達した。天明2年(1782年)、六代邦淑(宗閑居士)が大伝馬町に向店を新設して5店体制となり、資産は15万両を数えた。

安政4年(1775年)には、長谷川治郎兵衛が御為替組(大坂の幕府公金を江戸へ送るための商人組織)に加入する。このころから、長谷川家の経営に陰りが見え始め、度々の上納金に苦しめられる一方、文化3年(1806年)には江戸店が全焼。経営悪化により、本家も緊縮財政を余儀なくされた。明治維新頃の多難な時期を経て経営は安定に向かい、明治42年(1909年)には11代目定矩(宗真、可同)がガラス店という新業態に進出した。大正7年(1918年)には5店を統合して株式会社長谷川商店を設立するが、大正12年(1923年)の関東大震災では東京店が全焼。
定矩は文化人としても知られ、特に俳諧を好んだ。またが好物で、全国各地の餅に関する収集は数千点に及んだ。大正9年(1920年)、定矩は敷地内に餅の博物館「餅舎(もちのや)」を開館してコレクションを公開し、松阪名所の一つになったが、昭和16年(1941年)に閉館した[1]

第二次世界大戦後の昭和45年(1970年)には社名を「マルサン長谷川」に変更し存続するも、平成26年(2014年)に会社は解散し、その歴史に幕を下ろした。

旧長谷川治郎兵衛家

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長谷川治郎兵衛家の旧宅は三重県松阪市に現存しており、平成25年(2013年)4月1日に長谷川家から松阪市に寄贈された。平成28年(2016年)7月25日付で国の重要文化財に指定されている[2]。平成31年(2019年)4月1日より一般社団法人松阪市観光協会が指定管理者として、また令和4年(2022)年4月1日からは、NPO法人松阪歴史文化舎が管理運営している。休館日は水曜日(ただし、当該日が国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)に規定する休日に当たるときは、その翌平日)と12月30日から翌年1月2日までである。


脚注

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  1. ^ 春季企画展 令和2年3月18日(水)~6月14日(日)「俳人長谷川可同(かどう)と餅舎(もちのや)コレクション」 - 松阪市観光協会
  2. ^ 旧長谷川邸 - 松阪市ホームページ


参考文献

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  • 『太陽コレクション12 「士農工商」 仕事と暮らし江戸・明治 Ⅳ 商人』、平凡社、1979年、30、31頁。
  • 「松坂商人長谷川治郎兵衛家旧宅」、松阪市教育委員会発行、2014年。