長野公足
長野 公足(ながの の きみたり、生没年不明)は、奈良時代中期の貴族。名は君足とも記される。氏姓は山田史のち広野連、長野連。官位は従五位上・因幡守。
経歴
[編集]孝謙朝の天平勝宝4年(752年)従六位下から四階昇進して外従五位下の叙位を受ける。天平勝宝7歳(755年)山田史から広野連に改氏姓する。天平勝宝9歳(757年)内位の従五位下に叙せられ、のち広野連から長野連に改姓したか(後述)。
淳仁朝初頭の天平宝字2年(758年)11月に東大寺写経所より油6斗2升を長野連が銭3貫430文で購入し[1]、同じく「長野大夫」が同様のことをしたとの記録があるが[2]、いずれも公足のことを指すか。翌天平宝字3年(759年)11月に従五位下・越前員外介の官位にあった際に、造宮輔・中臣丸張弓らとともに保良宮の造営に派遣されるが、同年12月には在京とも見える[3][4]。
なお、このころに君足から公足と改名していると見られるが、巨勢公成などの場合と同じく、天平宝字3年(759年)10月に打ち出された「君」の文字を民の姓から除くという藤原仲麻呂の政策[5]によるもの推定される[6]。天平宝字5年(761年)6月に光明皇太后の1周忌の御斎会に供奉した労により、文室大市・国中公麻呂とともに爵1級を与えられ、公足は従五位上に叙せられた。同年10月に丹後守に任ぜられると、翌天平宝字6年(762年)因幡守に遷るなど、淳仁朝で地方官を歴任した。
山田君足と長野君足の同一人物について
[編集]山田君足と長野君足は以下理由により同一人物とみられる。
- 長野氏(長野連)は山田氏(山田宿禰)と同じく忠意を祖とする同族である(『新撰姓氏録』)[7]。
- 同一人物と仮定して経歴に矛盾がない。
- 史料上、山田(広野)君足は天平勝宝9歳(757年)5月20日以前のみ現れ、長野君足は天平宝字3年(759年)11月16日以降のみ現れる。
- 位階(従五位下)が一致している。
広野君足が最後に史料に現れる天平勝宝9歳(757年)5月20日からまもない同年5月26日勅において、天皇および后と同じ名の氏や名を名乗ることが禁じられている[8]。これにより、持統天皇の国風諡号である高天原広野姫天皇を避けて、広野から長野と改姓した可能性が高い[9]。
官歴
[編集]注記のないものは『続日本紀』による
- 時期不詳:従六位下
- 天平勝宝4年(752年) 正月30日:外従五位下(越階)
- 天平勝宝7歳(755年) 3月1日:山田史から広野連に改氏姓
- 天平勝宝9歳(757年) 5月20日:従五位下(内位)。5月26日:広野連から長野連に改姓か
- 天平宝字3年(759年) 11月16日:見越前員外介
- 時期不詳:君足から公足に改名か
- 天平宝字5年(761年) 日付不詳:見越前員外介[10]。6月26日:従五位上(光明皇太后周忌御斎会供奉)。10月1日:丹後守
- 天平宝字6年(762年)正月9日:因幡守
脚注
[編集]- ^ 『大日本古文書』巻14-266頁
- ^ 『大日本古文書』巻14-242頁
- ^ 『寧楽遺文』下巻721頁
- ^ 「東大寺領越前国糞置村開田図奥書」『大日本古文書』巻4-393頁
- ^ 『続日本紀』天平宝字3年10月9日条
- ^ 岩波書店『続日本紀 4』115頁注25
- ^ 「長野連。山田宿禰同祖、忠意之後也」『新撰姓氏録』右京諸蕃上,河内国諸蕃
- ^ 「勅、頃者百姓之間曽不知礼、以御宇天皇及后等御名有着姓名者、自今以後不得更然、所司或不改正、依法科罪、主者施行」(『類聚三代格』巻17「国諱追号并改姓名事」1条,天平勝宝9歳5月26日
- ^ 岩波書店『続日本紀』3補注18-33
- ^ 『大日本古文書』巻15-131頁