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長野祐一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長野 祐一郎
生誕 1889年11月5日
日本の旗 日本 島根県
死没 (1950-01-17) 1950年1月17日(60歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1912 - 1946
最終階級 陸軍中将
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長野 祐一郎(ながの ゆういちろう、1889年(明治22年)11月5日 - 1950年(昭和25年)1月17日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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島根県出身。松江中学校を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第41連隊付となる。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業。

歩兵第41連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官などを経て、1930年(昭和5年)12月、陸大専攻学生となった。1931年(昭和6年)11月、歩兵学校教官に就任、関東軍司令部付、第19師団参謀などを歴任し、1936年(昭和11年)8月、陸軍大佐に昇進し歩兵学校教官となった。1937年(昭和12年)7月、歩兵第11連隊長に就任し日中戦争に出征。徐州会戦、広東攻略戦などに参加した。1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級し陸軍兵器本廠付となる。

1940年(昭和15年)4月、陸軍兵器本部企画部長となり、独立混成第3旅団長を経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍中将に進み第37師団長に親補され山西省に駐屯し中国戦線で活動した。1945年(昭和20年)4月、第16軍司令官となり、ジャカルタで終戦を迎えた。1946年(昭和21年)5月に復員。同月から1948年(昭和23年)4月まで橘丸事件の戦犯容疑により拘留されたが無罪となり釈放された。

1948年1月31日、公職追放仮指定を受けた[1]

栄典

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脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。