長野藤定
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 大永6年(1526年) |
死没 | 永禄5年5月5日(1562年6月6日) |
改名 | 源次郎(幼名)→藤定→輝伯(法号) |
戒名 | 梅香院殿玉巌玄沢大居士 |
官位 | 大和守 |
主君 | 北畠具教 |
氏族 | 長野工藤氏 |
父母 | 父:長野稙藤 |
兄弟 | 藤定、雲林院祐基、細野藤光 |
子 |
藤勝、織田信包正室 養子:具藤(北畠具教次男)、信包(織田信長弟) |
長野 藤定(ながの ふじさだ)は、戦国時代の武将。伊勢国の戦国大名。長野工藤氏15代当主。
生涯
[編集]大永6年(1526年)、14代当主・長野稙藤の子として誕生。父より早くから家督を譲られて15代当主となり、父と共同統治を行なっていたようである。
天文12年(1543年)、細野氏・分部氏を主力に北畠家の支配する南伊勢に侵攻し、迎撃してきた北畠晴具と争ったが、決着は着かなかった(垂水鷺山の戦い)。そのため、今度は北畠氏と和睦し、さらに南近江の六角定頼とも和睦して、北近江の浅井氏を攻めている。[要出典]
しかし、北畠氏と再び抗争を開始し、天文16年(1545年)から天文18年(1547年)にかけて北畠晴具の猛攻を受け、葉野の戦いで長野方の分部与三衛門が討ち取られるなど一志郡内で攻防が続いた。[要出典]北畠家に次第に押され気味となった長野氏は、永禄元年(1558年)に北畠具教と和睦し、具教の次男・長野具藤を養子に迎えて家督を譲ることを余儀なくされた[1]。形式的には和睦だが、実質的には臣従である。
永禄5年(1562年)5月5日に死去。享年37。その死は病死といわれているが、父・稙藤も同日に死去しているため、北畠家による暗殺説もある。
脚注
[編集]- ^ 「北畠具教」『朝日日本歴史人物事典』