間人町
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たいざちょう 間人町 | |
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廃止日 | 1955年2月1日 |
廃止理由 |
新設合併 間人町、豊栄村、竹野村、上宇川村、下宇川村 → 丹後町 |
現在の自治体 | 京丹後市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 京都府 |
郡 | 竹野郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
3,987人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 網野町、豊栄村、竹野村 |
間人町役場 | |
所在地 | 京都府竹野郡間人町 |
座標 | 北緯35度44分25秒 東経135度06分07秒 / 北緯35.74014度 東経135.10206度座標: 北緯35度44分25秒 東経135度06分07秒 / 北緯35.74014度 東経135.10206度 |
ウィキプロジェクト |
間人町(たいざちょう)は、京都府竹野郡にあった町。日本海に面していた。現在の京丹後市丹後町間人にあたる。
本項では町制前の名称である間人村(たいざむら)についても述べる。
地理
[編集]- 河川:竹野川
- 島嶼:城島
歴史
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、近世以来の間人村が単独で自治体を形成。
- 1921年(大正10年)4月1日 - 間人村が町制施行して間人町となる。
- 1927年(昭和2年)3月7日:北丹後地震により町内で火災が発生。新聞の号外では「間人町全焼」と短く伝えられた[1]。
- 1955年(昭和30年)2月1日 - 間人町・豊栄村・竹野村・上宇川村・下宇川村が合併して丹後町が発足。同日間人町廃止。
教育
[編集]中学校
[編集]小学校
[編集]出身者
[編集]- 松本重太郎 - 実業家。様々な企業の設立に携わり、「関東の渋沢(栄一)、関西の松本」と謳われた[2]。間人小学校には松本の石像が建立されている[2]。間人村小間西生まれ[2]。
- 植垣弥一郎 - 実業家・政治家。明治乳業社長・会長や参議院議員を務めた[3]。生涯にわたって故郷の間人を愛し、玄関の表札には「植垣間人」と記していた[3]。間人村岡成生まれ[3]。
- 小谷勝重 - 弁護士・最高裁判所判事。1948年(昭和23年)の最高裁判所の創設から13年間にわたって裁判官を務めた[4]。間人村向地生まれ[5]。
- 谷源蔵 - 貿易商。ロシアのウラジオストクを拠点として貿易に携わった[6]。間人小学校に奉安殿を建設したり、間人の郷土研究なども行った[6][7][4]。間人村岡成生まれ[6]。
- 相見幸八 - 貿易商。戦前は満州のハルビンを拠点として貿易に携わり、戦後には日本に引き揚げて丹後交通(現在の丹後海陸交通の前身の一つ)の社長などを務めた[8]。1940年(昭和15年)には間人町に対して間人町会館(のちの丹後町役場庁舎)を寄贈した[8]。谷源蔵の甥[8]。間人村岡成生まれ[8]。
- 藤原勘治 - ジャーナリスト。毎日新聞社取締役・西部本社代表。ハンセン病患者救済事業でも尽力し、インドに救ライセンターを設立するなどしている[9]。間人村小間西出身。間人町図書室(のちの丹後町図書室)・間人小学校(のちの丹後小学校)・間人中学校(のちの丹後中学校)には藤原の寄付による豊淑文庫が設置されている[9]。間人村小間西生まれ[9]。
脚注
[編集]- ^ 峰山、網野、加悦、岩滝など壊滅『大阪毎日新聞』昭和2年3月8日号外(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p219 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ a b c 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.220-222
- ^ a b c 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.222-224
- ^ a b 近世・近代における郷土の先覚者 京丹後市
- ^ 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.224-225
- ^ a b c 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.225-226
- ^ 水内佑輔, 粟野隆「大正・昭和初期の京都府間人における東山公園設立経緯と谷源蔵の考え」『ランドスケープ研究』第80巻第5号、日本造園学会、2017年、419-424頁、doi:10.5632/jila.80.419、ISSN 1340-8984、NAID 130006076640。
- ^ a b c d 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.226-227
- ^ a b c 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.227-229
参考文献
[編集]- 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。