間部詮寛
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天保11年8月1日(1840年8月27日) |
別名 | 徳太郎、内蔵助、隼人 |
主君 | 徳川家斉→家慶? |
氏族 | 間部氏 |
父母 | 父:間部詮芳、母:間部詮茂の娘 |
兄弟 | 詮寛、俊章、女子、女子、詮徴 |
妻 | 不明 |
子 | 養子:詮徴 |
間部 詮寛(まなべ あきのぶ)は、江戸時代後期の旗本。赤坂間部家当主・間部詮芳の長男。
生年不明[1]。文政6年(1823年)4月、父・詮芳が松平外記に殺され、それから7か月後の11月に赤坂間部家の家督を相続する。天保11年(1840年)8月、死去。家督は弟の詮徴が継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 続群書類従完成会『新訂寛政重修諸家譜』第二十二 八木書店、1966年。
- 竹内信夫「所謂「本所間部家」と「赤坂間部家」について」『地域史研究と歴史教育:森山恒雄教授退官記念論文集』 亜紀書房、1998年。