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間部詮寛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
間部詮寛
時代 江戸時代後期
生誕 不明
死没 天保11年8月1日1840年8月27日
別名 徳太郎、内蔵助、隼人
主君 徳川家斉家慶
氏族 間部氏
父母 父:間部詮芳、母:間部詮茂の娘
兄弟 詮寛、俊章、女子、女子、詮徴
不明
養子:詮徴
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間部 詮寛(まなべ あきのぶ)は、江戸時代後期の旗本赤坂間部家当主・間部詮芳の長男。

生年不明[1]文政6年(1823年)4月、父・詮芳が松平外記に殺され、それから7か月後の11月に赤坂間部家の家督を相続する。天保11年(1840年)8月、死去。家督は弟の詮徴が継いだ。

脚注

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  1. ^ 文化11年(1814年)9月、鯖江藩主間部詮熙の遺産分けの面々に間部徳太郎(詮寛)の名がみえることから、文化11年以前の生まれと考えられる(竹内信夫,1998,pp.670-671)。

参考文献

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  • 続群書類従完成会『新訂寛政重修諸家譜』第二十二 八木書店、1966年。
  • 竹内信夫「所謂「本所間部家」と「赤坂間部家」について」『地域史研究と歴史教育:森山恒雄教授退官記念論文集』 亜紀書房、1998年。